ブレイクスルー

 ピアノを習い始めて17年。当初は上達が速いと自惚れてもいたが、いつの頃からか大きな壁にぶち当たってしまった。練習すれば確かにその曲は徐々に弾けるようにはなる。だが、実力がついたという手応えがない。自分の練習には明らかに何か問題があるのだ。

 これまで指導を受けた先生方からは、いずれも手首を使う重要性について指摘されてきた。だが、それは僕の手首があまりにも固まっているので、もっと柔らかくして弾くべきだというアドバイスだと捉えてきた。あくまでも主役は指で、手首の役割は補助的なものだと考えてきたのである。

 最近のバッハでも、S先生から手首の使い方について何度も指示を受けた。しかし、手首を意識すると逆に動きがぎこちなくなってしまい、なかなか手首を使う意味が理解できない。普段ならそろそろ諦めて次の曲に移る時期だった。だが、ここが踏んばり所ではないのかという思いが、ふと頭をよぎった。とにかくこのままでは駄目だ。そこで、たとえこの小曲に1年かけようとも感覚がつかめるまでは決して止めない、と腹をくくった。

 その決意は先生にも伝わったようで、納得するまで遠慮なく駄目出ししてもらえるようになった。大人のピアノでは、楽しめれば良いという生徒が多く、先生としても技術的なことをあまりしつこく言うのは遠慮があるのだ。

 鍵盤から指が持ち上がっていないかどうかS先生の目が光る。弾きにくい所に来るとなんとか指を動かそうと無意識のうちに指が鍵盤から離れてしまうのだ。これは指に要らぬ力が入っている証拠だ。だが、いくら力を抜こうとしても指は持ち上がり、無理に抑えようして指はぴくぴく痙攣している。なんとも情けなくなる。

 だが、諦めずに試行錯誤を繰り返しているうちに、自然に力が抜けていることがあった。そうした時は、まるで手首より先が手袋になったような気分だ。手袋の指は動かないので自ずと手首を使わざるを得ない。一見、これでは指のコントロールなど出来そうもないように思える。だが、意外にも手首と指は本来あるべき位置を見つけたかのように安定し、無駄な力がすっかり抜け、音も見違えるように澄んでくる。

 無理に指の力を抜こうとするのではなく、指に力を入れずに弾ける弾き方があるのではないか。何かをつかみかけているという思いに胸が騒いだ。

 要は、腕の重みで指を自然に鍵盤に下ろせる位置に、手首を使って持って行ってやれば良いのだ。もちろん理屈はわかっても実際にやるのは大変だ。手首の使い方は音形によって無数にある。試行錯誤の連続だ。だが、気分は晴れやかだ。まるで目から鱗が落ちたように、理にかなった練習方法が見えてきたのだ。随分回り道したが、やっと重い扉が開き始めたのである。

 僕のピアノ人生にこんな展開が待っているとは思ってもみなかった。何事も納得するまでもがいてみれば、意外と道は開けて来るのかもしれない。

モーツアルトの魅力(7) 無垢な心

 モーツァルトの第25番のピアノコンチェルトは彼の円熟期に書かれた傑作である。明るさと暗さが微妙に交錯する様はオペラを彷彿とさせ、その終楽章はまさにモーツアルトの創造力の爆発だ。僕にとってはこの曲は人生で与えられた最高のプレゼントの一つだ。

 ところが、先日、久しぶりにこの曲を聴いてみて愕然とした。以前、聴いたときに比べて物足りなく感じられたのだ。安直にミニコンポで聴いたのが良くなかったのか。いや、ひょっとしたら若い頃に比べ感受性が落ちているのではないか。あの小林秀雄も「モオツァルト」のなかで、今の自分はト短調のシンフォニーを20年前より良く理解しているだろうかと、自問している。彼の音楽は人生を重ねれば理解が深まるというものではない。

 数日後、MacBook AirにAKGの高級ヘッドフォンを刺して再度聴いてみた。もちろんリベンジを期して。25番の終楽章は明るくさりげない調子で始まり、時折短調と長調が絡みながらも穏やかに進行して行く。だが、しばらくするとモーツァルト特有の即興的な展開から曲は急に走り出し一気に緊張感が高まる。その瞬間、その何かに取り憑かれたかのように無心に前に進む音楽に、僕は大袈裟ではなく神を感じていた。

 モーツァルトの音楽は聴き方によって実にさまざまな顔を持つ。BGMとして聞き流しても、その軽やかな音楽は上質の雰囲気を醸し出してくれるだろう。本気で向き合えば、その絶妙な音色、独特の即興的な展開、調和のとれた構造美に心を奪われるに違いない。さらに細部に耳を澄ませれば、何のてらいもない単純な音が繊細で深い表情を生み出していることに気づくだろう。

 だが、彼の音楽にはそうした客観的な鑑賞を超えたものがある。彼の音楽はわれわれの心に普段想像したこともない崇高な感情を呼び起こすのだ。それは自分のなかに元々あったものだろうが、なぜそれが呼び起こされたのか皆目わからない。

 モーツァルトの音楽の核心は無垢な心にある。だが、それはアイネ・クライネ・ナハトムジークのメロディーが子供のように純真だ、というような意味ではない。無垢とは、現実をありのままに受け入れ、それに心が自然に反応をすることだ。幸福な時間はいつまでも続いて欲しい。だが、それは不可能だと悟れば、躊躇なく次の一歩を踏み出す。傷つくときは傷つき、喜ぶときは喜ぶ。モーツァルトの音楽はその繰り返しだ。だが、その間合いを彼が音で表した時、われわれは信じられないほど感情を揺さぶられることになるのだ。

 モーツァルトという芸術家は、あらゆる芸術家のなかで最も自分をさらけ出した芸術家、自分をさらけ出すことをそのまま芸術に昇華することができた唯一の芸術家ではなかろうか。だが、彼の美しいメロディーが裸の心を表していることにはなかなか気づかない。それに気づくためには、われわれが心にまとっている鎧を脱ぎ捨てなければならない。

 モーツァルトの音楽は聴くものの心の自由度をはかる試金石だ。彼の無垢な心に共鳴できた時、われわれの心は一歩成長し、あらたな幸福を発見することになるだろう。

グレン・グールドのモーツァルト

 このところ練習してきたギロックのジャズが一段落し、次に何をやるか探すために帰宅途中にiPhoneを覗いていると、グレン・グールドのモーツァルトのピアノソナタ全集が目に飛び込んできた。この全集は癖が強く、これまであまり真剣に聴かなかったのだが、久しぶりにその最初の曲、第1番 K279ハ長調を聴いてみると、まるで乾いた喉に流し込まれた冷たい水のようにすーっと心の奥まで浸み込んで来た。音楽を聴いてこうした幸福感を覚えるのは久しぶりのことだった。

 20世紀の偉大なピアニストの一人、グレン・グールドといえば、もちろんモーツァルトではなくバッハだ。かつてはチェンバロで弾かれるのが常識だったバッハを、表現力ではるかに勝るピアノを用い、斬新な解釈でバッハの鍵盤音楽の可能性を一気に広げたのである。だが、彼はバッハの大家と呼ばれるには少々個性が強過ぎた。他人の意見には耳を貸さず、気まぐれで奇行も目立った。バッハの偉大な才能だからこそ、そんな彼を惹きつけ、その強烈な個性を受け止め、生涯にわたりその才能を鼓舞し続けたのである。

 では、グールドはモーツァルトをどう捉えていたのであろうか。彼のモーツァルトのソナタ全集を購入し、K333のソナタをはじめて聴いたときの驚きと落胆は忘れられない。再生速度を間違えたかと思わせるほどの高速のテンポ設定に、人を馬鹿にしているのではないかという憤りさえ覚えた。かつてのモーツァルト演奏の第一人者、リリー・クラウスが、「才能があるのだから、もっと普通に弾けば良いのに」と嘆いたのも頷けた。

 冒頭に挙げたK297でも、テンポは極端に遅く、やたらと音の粒を揃えて弾いており、いわゆるモーツァルトらしい滑らかさからはほど遠い。また、左手の伴奏は、通常右手を和声的に補佐するものだが、グールドの演奏では右手と競うように自己主張している。グールドはモーツァルトをモーツァルト風に弾く気などさらさらないのだ。

 だが、粒の揃ったタッチは、聴くうちに次第にモーツァルトに似合っているように思えてくる。さらに注意深く耳を傾ければ、グールドはモーツァルト独特の魅力をはっきりと意識していることがわかってくる。モーツァルトの神髄はその即興的な展開にあるが、彼は計算し尽くされた演奏でその魅力を表現し、全身鳥肌が立つような感動を呼び起こすのだ。さらに左右の旋律の独立性は、モーツァルトの音楽的構造の堅牢さを浮かび上がらせ、軽やかなメロディーが実は鋼のような強さ秘めていることを明らかにする。彼は、モーツァルトの音楽をぎりぎりまのところまで追い込むことにより、永年に渡って創り上げられて来た偶像を破壊し、改めてモーツァルトの真の可能性を世に問うたのではないだろうか。

 K333の奇妙な演奏にも、彼独自の深い洞察が隠されているのかもしれない。いたずら好きのモーツァルトに対するグールド流の返礼と思えなくもない。奇をてらっているとみせかけて鋭く核心を突くのは、いかにもグールド流のやりかたである。癖が強いほど、騙されないよう特に気をつける必要がありそうだ。

モーツァルトの魅力(6) 弾く楽しみ

 自分でピアノを弾く場合、モーツァルトは他の作曲家と決定的な違いがある。とにかく練習するのが楽しく、いつまで弾いても飽きない。もちろんモーツァルトが好きだということもあるが、聴いただけではそれほどでもない曲も弾いてみるとすっかり夢中になってしまうことも珍しくない。モーツァルトを弾くことは何か特別に人を惹きつける魅力があるのだ。

 このところK545のピアノソナタを練習している。この曲はモーツァルトが教え子のために作曲したもので、他のソナタに比べて明らかに技術的に抑えて書かれている。だからといって決して練習曲ではない。愛らしいメロディーの中にエッセンスが詰まっており、最小限の音で構成されたモーツァルトの小宇宙がある。しかも、教え子に対する教育者としてのモーツァルトの親心も身近に感じられるユニークな曲でもある。多くの人に親しまれてきたのは、単に技術的に取っ付き易いからだけではなく、この曲が演奏する歓びに溢れているからなのだ。

 もっとも、この曲をきれいに弾くことはそう簡単ではない。確かに速いパッセージも難しい指使いもないが、そもそも少ない音で豊かな響きを生み出すこと自体難しい。音が薄いためメロディーやアーティキュレーションのほんのわずかな不自然さも目立ち、一瞬の気の緩みも曲全体を台無しにしてしまう。しかも、モーツァルトらしく伸びやかに歌うことが求められる。恐らくプロのピアニストにとってもかなり厄介な曲に違いない。

 そんな曲だから、僕のような万年初心者にはかなりハードルが高い。情けない話だが、なかなかモーツァルトの音にならない。弾くのは楽しいが、なかなか一線を越えられず、次第に苦手意識を持つようになっていた。

 ところが最近、思わぬ進歩があった。転機になったのは、K545の前に練習していた「きらきら星変奏曲」である。この曲は子供向きのやさしい曲だと思われているが、実は技術的にもそこそこ難しく、何よりもいたるところに顔を出す不協和音がモーツァルト的な優雅な演奏の妨げとなる。まるで前衛音楽のようなシュールな響きになってしまい、軽快に転がるような演奏からは程遠い。幸い努力の甲斐あって、次第にモーツァルトらしく聴こえるようになってきた。徐々に手首の使い方がわかり余計な力が抜けてきたのだ。試しにK545を弾いてみると、一皮むけた音が響いた。やっとスタート地点に立てたのだ。

 ところで、モーツァルトの曲はいつも出だしが難しい。ソナタの場合、出だしは第一主題になるが、モーツァルトはそのメロディーに細心の注意を払っている。単に主題はその曲の顔だからという理由だけではない。主題には曲のその後の展開につながるさまざまな仕掛けが含まれているのだ。つまり単に冒頭を飾るメロディーというだけでなく、まさに曲全体を予言する主題の提示なのだ。

 もちろん曲を聴く際にも、主題とその後の展開の関係には耳を澄ませるが、ただ受動的に聴くだけでは作曲家の真の意図はなかなかつかみ切れない。一方、自分で弾く場合は、はたしてこの弾き方で良いのかどうか納得できるまで何度も弾いて自問することになる。出だしをどう弾くかでそれに続く部分の弾き方が変わってくる。出だしの弾き方がいい加減であれば、曲全体が適当な音楽になってしまうのだ。弾くことは、その曲に対する自分の解釈の表明だ。言うなれば、その曲に対してある種の責任を負うことになるのである。

 同じ曲でも演奏者によって弾き方は違ってくる。あるメロディーを悲痛な感じに弾く人もいれば、淡々と弾く人もいる。そうした表現の幅を受け入れる包容力もモーツァルトの音楽の特徴だ。だからと言って、それが音楽の完成度を落とすことはない。いや、むしろそうした包容力があるからこそ完成しているのではないだろうか。モーツァルトの音楽は、演奏抜きでは考えられない。演奏してはじめて完成する音楽なのである。

 モーツァルトにとって作曲と演奏は不可分のものだった。だから彼は、自分の音楽を演奏する者に自らの世界を共有する特権を与えてくれているのではないだろうか。

モーツァルトの魅力(5)モーツァルトの「音」

 大学の頃、あるファミリーコンサートに行った時のことである。人気のオペラ歌手と市民オーケストラのジョイントで、プログラムは子供でも楽しめるように有名なモーツァルトの名曲と親しみやすいポピュラー音楽で構成されていた。

 最初に、あるポピュラー音楽をオペラ歌手がオーケストラの伴奏で歌った。その時は特に何も思わなかったのだが、次のモーツァルトのアリアが始まって愕然としたのである。前の曲とは「音」が全く違うのだ。

そのポピュラー音楽は、こうしたコンサート向きに編曲されたものだろうが、編曲と言っても原曲の雰囲気を壊さない程度のもので、特に工夫があるわけではない。一方、モーツァルトの曲はオリジナルである。そこでは音符の一つ一つに天才の意識が通っている。意図する音を出すためにどの楽器にどのような旋律を割り当てるか、一音たりとも疎かにされていない。違いがあるのは当然だった。

だが、その時、僕を驚かせたのは、単なるクオリティーの問題ではない。通常、オーケストラの伴奏で歌を歌えば、オーケストラの音と歌声が同時に聴こえる。それだけのものだと考えるのが普通だ。しかし、モーツァルトではそうではなかった。どんな魔法が使われたのか知らないが、そこには想像もしない別の「音」が鳴っていた。確かに、耳では歌声とオーケストラは独立に聴こえているのだが、頭のなかでは違う「音」が鳴っているのだ。これは一体何なのだ。魔法の正体をつかもうとしたが、よくわからなかった。

もちろん、いろいろな楽器の絶妙な組み合わによって、素晴らしい音を創りだすことはできる。しかし、このときの「音」はそうして生まれたものではない。むしろ、歌声とオーケストラの音が何らかの調和に達することによって生まれたものだ。ただし、どのようにしてその調和を生み、そしてその調和がどのようにして新たな次元の「音」を生むのかはわからない。だが、モーツァルトが意図的にやっていることは確かだ。彼は必要かつ最少の音でそれを実現する術を知っていたのである。

この「音」は、歌舞伎などの芸にも似ている。芸を観る目のない者には、何が面白いのか皆目わからない。しかし、目利きになればなんでもない所作にも、至高の芸が隠されていることがわかってくる。

とにかく、それまでモーツァルトを聴くときに聴こえていなかった「音」が、急に目の前にはっきり現れたのである。こんな素晴らしい世界があるのだ。そしてそれは自分の目の前に無限に広がっているののである。

その後、モーツァルトを聴く際には、「音」に耳を澄ますようになった。そしてベートヴェンやチャイコフスキーなど他の作曲家の音にも耳を傾けてみた。だが、そうした偉大な作曲家といえども、モーツァルトの「音」に匹敵するようなものは見いだせなかった。

モーツァルトにとって、その「音」はごく日常的なものだったかもしれない。しかし、だからこそこの「音」に天才モーツァルトの神髄があるように思えるのである。

モーツァルトの魅力(4) ピアノ協奏曲23番

モーツアルトの音楽は、器楽から交響曲、オペラ、宗教音楽と多岐に渡っているが、中でも最も重要な分野の一つがピアノ協奏曲である。モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あるが、特に20番以降の作品は、彼の全作品の中でも最高の水準を誇っている。

モーツァルトは生前、作曲家であると同時に当代随一のピアニストでもあった。ピアノ協奏曲は、その彼が自ら主催した演奏会において、自分自身で演奏するために作曲されたものなのである。そのことは明らかに作曲にも影響しており、彼の他の作品に比べても高揚感や即興性が特にリアルに伝わってくる。

一般的にピアノ協奏曲というのはピアノ対オーケストラ全体の対決構造になっている。しかしモーツァルトの作品では、オーケストラの各楽器があたかもオペラの登場人物のようにそれぞれ個性的な役割を与えられ、主人公であるピアノと絶妙の駆け引きを繰り広げる。一方、ピアノも弦のピチカートと絡んだり、クラリネットを引き立てるために裏に回ったりと縦横無尽に駆けまわる。自ら鍵盤の前に座るモーツァルトの細やかな気遣いが伝わってくる。こうしたオーケストラとピアノの関係は各ピアノ協奏曲によって異なり、全く違った世界を描き出しているのである。

そうしたピアノ協奏曲に中で、僕が特に好きなのが第23番K488だ。この曲はオーケストラの各楽器とピアノの絡み合いが特に絶妙だ。そのために彼は、通常のピアノ協奏曲ではオーケストラとは別に必ずピアノに与えられるはずの独立した主題を思い切ってなくしてしまっている。その結果、各楽器同士の心情的な関係がより深く緊密になっている。

楽器同士のメロディーのやり取りは、ときには粋なハーモーニーを歌い上げたかと思えば、ときには敬意を持って相手を称える。そしてまたあるときには励ますように友人の背中を押すのである。

そうしたやり取りは決してその場だけの思いつきではない。一つ一つの表現は曲全体の構造をしっかりと担っている。1楽章と3楽章の主題の緊密な相関が示すように、この曲では、曲全体の統一感が際立っているのだ。通常モーツアルトの作品ではほとんど見られない綿密なスケッチがこの作品では残されていることからも、当時、ウィーンで人気の絶頂にあったモーツァルトのこの曲にかける自信と意気込みが伝わってくる。

僕はこの23番の中でも第3楽章が最も好きだ。この第3楽章のために1、2楽章が周到に準備されていると言っても過言ではない。かつて学生の頃、僕はこの第3楽章を聴くたびに、ああ、自分はこれから一生生きて行っても、これ以上の幸福感に出会うことはないだろうと感じた。今もそれは変わらない。だが、それがどういう気持ちなのか、未だにうまく言葉にできない。幸福感というのは正確ではない。あえて言うなら愛に満ちているとでもいうのだろうが、愛という言葉から想像されるよりずっと多様で、屈託のない、しかもわくわくさせられるような歓びに満ちた世界がそこにはあるのだ。

モーツァルトの魅力(3)『プラハ』

モーツァルトの交響曲は41曲あるが、その最後の3曲は3大交響曲と呼ばれ、モーツァルトの天才の証として永年讃えられてきた。僕自身にとってもモーツァルトの凄さを最初に思い知ることになった思い出深い名曲だ。しかし、実はこの3曲に引けを取らない、あるいはそれ以上の魅力を湛えた交響曲がある。第38番の『プラハ』である。

3大交響曲は確かに素晴らしいが、そこには何か博物館の作品のような距離感がある。それに比べ『プラハ』の魅力は、まるで女性の魅力のように直に伝わってくるのだ。

モーツァルトの交響曲の中でも『プラハ』は特に複雑な構造を持っている。それは、人間の心に潜む多様で微妙な感情を扱うために、さまざまな音楽的技術の融合が図られた結果である。

モーツァルトの時代にはソナタ形式に代表される和声音楽が全盛だったが、バッハ以前に遡ると、複数の旋律を同時進行させる対位法音楽が主流だった。モーツァルトは、和声音楽にこの対位法を取り込もうとずっと腐心していた。3大交響曲の最後を飾る『ジュピター』の終楽章は特に有名だが、他にもK387の弦楽四重奏曲や後期の2曲のピアノソナタなどさまざまなところで和声と対位法の融合を試みている。だが、それらの作品には実験的な試みとしての特殊さが残っている。また、それが魅力でもあったのだ。

しかし『プラハ』では、対位法は和声の中にすっかり溶け込んでいる。複数のメロディーがそれぞれ自らの主張を奏でたかと思えば、たちまち一体化し絶妙なハーモニーを響かせる。そうした対位法と和声の融合により新たな音楽的な構造が生み出され、命を吹き込まれて自律的に動き出す。『プラハ』ではその様子が手に取るように伝わってくる。

さらに、短調と長調が複雑に絡み合い、曲全体が襞のある感情表現に覆われているのも『プラハ』の大きな特徴だ。長調は明るく短調は暗いというような単純な世界はもはや通用しない。明るい中にも陰りがあり、深刻さのなかにも歓びはある。しかも、常にこうした微妙で深い心理を追求しているにもかかわらず、けっして難解ではない。表現は極めて的確で説得力がある。

当時、モーツァルトはオペラ『フィガロの結婚』を成功させ、次の『ドン・ジョバンニ』の構想を練っていた時期だ。そもそも『プラハ』という名前は、『フィガロ』のプラハ初演の際に演奏されたことに由来している。ストーリーとセリフがあるオペラでは交響曲に比べて感情表現はより生々しくなり、舞台での掛け合いではさまざまな音楽的な表現がぶつかり絡み合う。オペラはモーツァルトにより高いレベルの音楽を要求し、モーツァルトはそれに応えるために一段と成長する必要があった。

形式的な構造美を追求する交響曲という音楽に、さらにオペラにも優る人間の多様な感情を吹き込むことも、またモーツァルトらしい夢だった。そのために当時のあらゆる音楽技術を注ぎ込んだ傑作、それが『プラハ』なのである。

モーツァルトの魅力(2) 小林秀雄の「モオツァルト」

 30年ほど前にアメリカを1ヶ月ほど旅したことがある。その時、最初に訪れたニューヨークで、ある若い指揮者に1週間ほどお世話になった。アメリカという競争社会で日本人指揮者が生き抜いていくのは並大抵のことではない。ニューヨークの聴衆の関心を引き止め続けるのがいかに難しいか、思わず彼の口を突いて出ることも珍しくなかった。

そんなある時、彼は1冊の本を手にして、「やっぱりこれが一番だ」と言う。僕は目を疑った。それは当時、自分の特別な愛読書だった小林秀雄の「モオツァルト」だったのだ。演奏に際して日夜膨大な資料を研究しているが、モーツァルトへの新鮮な思いを蘇らせてくれるのはこの本だけだという。音楽の専門家である彼の口から、しかも初めて来た外国の地でそのような話を聞くとは思いもよらず、僕は何か運命的なものを感じていた。

ニューヨーク滞在の最後の夜、その指揮者に誘われてカーネギー・ホールのコンサートに出かけた。前半の演奏が終わり、休憩時間にその日の演奏について彼が饒舌に語っていると、奥さんが遅れて駆けつけてきた。そして、「小林秀雄さん、亡くなったね」とボソリと伝えたのだ。小林秀雄は最後に僕に何かを伝えようとしてくれたのだろうか。後半の演奏を聴きながら、様々な思いが頭のなかをグルグル回り続けた。

小林秀雄の「モオツァルト」は、芸術批評の本質に関わるものであり、モーツァルトだけの話に終わらない。しかし、少なくとも全編にわたり彼の心に響く豊かなモーツァルトの音楽が垣間見える。それが僕自身のモーツァルト遍歴の道標となってきた所以なのだ。

「ト短調のシンフォニーの有名なテーマが突如として頭の中で鳴った」というくだりは非常に有名だが、重要なのはその後に、「今の自分は(20年前の)その頃よりもこの曲をよく理解しているだろうか」と自問していることである。歳を重ね知識が増えるにつれ、頭による音楽の理解は進む。しかし、自分の心がモーツァルトの音楽に本当に共鳴しているかということになると疑わしい。彼にとって信じられるのは自らの感性だけなのだ。こちらも歳をとったせいか、今読むと身につまされる思いがする。

「モオツァルト」は、小林自身を語ったものだとしばしば言われる。確かにそうとも言えるが、彼の内には非常に豊かなモーツァルトの世界が存在していたことは間違いない。僕が永年モーツァルトを聴き、またピアノで弾くことにより新たな発見をするたびに、実はそれはすでに小林が言っていたことだったと気がつくことが珍しくないからである。

モーツァルトの創造の秘密に迫るために、彼は当初から分析的なアプローチが不可能であると心得ていた。「人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だ」という彼が引き合いに出したゲーテの言葉どおり、小林自身もからかわれて終わるのが落ちだ。しかし、モーツァルトの音楽との対峙は次第に彼自身のラプトゥス(熱狂)に火をつけた。それに身を任せ、自らの創作に没入することで、初めてモーツァルトを表現する術が見えた。自らを語ることによってのみ、モーツァルトの懐に飛び込むことができたのである。

モーツァルトの魅力(1) 「即興性」

先日、旧友と話をしている時、ふと「モーツァルトとの出会いは僕の人生にとって最大の事件だった」という話を始めた。普段はそんな話をしても誰も乗ってこないのだが、彼は関心は予想外に強かった。

中学の頃、僕は突如としてクラシック音楽を聴き始めたのだが、当時、その友人は僕がなぜそんなに夢中になっているのか不思議でたまらなかったらしい。さらにそういう僕に対して一種の羨望すら感じていたと言うのだ。そして、それから40年間、彼にとってクラシック音楽に情熱を燃やす僕の存在は大きな謎だったのである。

彼の疑問はシンプルだった。モーツァルトのどこがそれほど面白いのかということである。かつては自分の音楽の趣味について、誰かれかまわず熱く語ったものだが、そうしたことがなくなって久しい。その機会が思わぬ形で再び巡ってきたのである。彼との間に深い縁を感じつつ、同時に熱い情熱が蘇って来た。

これまでも、何度かモーツァルトについて書いたことがある。しかし、音楽の魅力を言葉で語ることは難しく、何かのエピソードを交えた解説のような文章になりがちだった。友人はそんな通り一遍の説明ではなく、僕自身の生の思いを聞きたがった。それならばと言うことで、無理を承知で独断と偏見に満ちたモーツァルト論に挑んでみることにした。

モーツァルト好きにとっては異論がないと思うが、彼の音楽の最大の特徴はその「即興性」にある。モーツァルトといえば淀みなく耳に心地良い音楽というイメージが強い。だが、実際には彼の音楽は飛躍に満ち、予想できない展開の連続なのだ。天気のいい日にピクニックにでも来ているようなうららかな主題で始まったかと思うと、なんの前触れもなく、突如、深刻なメロディーに変わっているといった具合だ。

だが、そうした飛躍が不自然な感じをいだかせることは決してない。聴く者の感情は確かにその突然の変化に反応しているのだが、それを当たり前のこととして受け入れている。急な変化があったことにすら気がつかない。気まぐれな展開がまるでマジックのように自然につながって行くのだ。恐らく人間の気持ちは本来気まぐれなものだと言うことだろう。モーツァルトはそうした人の心の本質を知っていた。正確に言うならば、彼は音楽によってなら人の心を自在に表現する術を知っていたのである。

気まぐれというのは、決してでたらめということではない。そこには感情を支配するある種の必然が貫いている。苦しみがあればそれを乗り越えようとする。喜びは周りの人への愛となることで成就する。また、不幸を受け入れることで人の心は澄わたっていく。その息もつかぬ変化の連続が、聴く者に鳥肌の立つような感動をもたらすのだ。

だが、彼の即興は即興では終わるわけではない。即興的な展開は次第に壮大なドラマに発展していく。そしてそれが堅牢で完璧な姿を現した時、われわれは初めてその即興の意味を知ることになるのである。

モーツァルト小論

指揮者のニコラス・アルノンクールが、モーツァルトは「10代にして音楽によって人間のあらゆる感情を表現できた」と語っている。だが、彼はモーツァルトが単に人間の感情を自由自在に表現できると言いたいわけではない。自ら指揮棒を振りその音楽を演奏するやいなや、そこには日常的には感じることのない純粋でデリケートな感情が次々と溢れ出ることに驚嘆し圧倒されたのである。人間の心は本来これほど自由で豊かな可能性を持っているのか。彼はモーツァルトから人間の感情の奥深さを教えられたのだ。

モーツァルトがもっともこだわった音楽はオペラである。オペラは当時の音楽芸術の最高峰で、オペラで成功することは最高の音楽家である証しだった。だが、理由はそれだけではない。主役にも脇役にもそれぞれの役割があり、それらを音楽によって思い切り表現することができるオペラという形式はモーツァルトにぴったりだったのである。

ピアノコンチェルトもまたモーツァルトにとってはオペラだった。各パートの楽器は、プリマドンナであるピアノを控えめに支えていたかと思えば、時にはするりと前に出てきて愛嬌ある台詞を発する。どの楽器も人格を備え個性を競っている。絶妙なタイミングで合いの手を入れたかと思えば、突如、全ての流れを断ち切り劇的な展開に導いていく。そこにはまさに、人が日常で感じる「あらゆる感情」をはるかに越えた多彩な世界がある。

昔から、モーツァルトは天才で何の苦もなく作曲できたと言われてきたが、そうした考えは多分に天才への憧れやヒーローへの期待から来ている。なかなか就職が決まらず焦りまくり、失恋で落ち込んで容易に立ち直れない姿にはもとより天才の面影はない。確かに彼には音楽を操る特別な才能があったが、だからと言ってその才能で人の感情を嘘なく表現することは楽ではない。極度の集中を必要とし、命を縮めるほどの過酷な作業であったに違いない。無論、何時もうまく行くとは限らない。彼の作品といえども相当の出来不出来があるし、多くの作品が途中で行き詰まり完成できずに終わっているのである。

宗教音楽で特に未完が多いのは、一つには娯楽音楽に比べて自らに高い完成度を課したためであろうが、そもそもオペラが得意なモーツァルトにとって宗教音楽は彼の表現力を特定の領域に閉じ込めてしまうものだった。モーツァルトにはやはり生を表現する音楽こそふさわしい。レクイエムが未完に終わった理由についてもいろいろ言われているが、結局、彼の手には余ったということではないだろうか。

小林秀雄に「モオツアルト」という傑作がある。僕自身、そこで展開される渾身のモーツァルト論に大きな影響を受けてきた。しかし、最近、自分でピアノを弾いていると、小林のモーツァルトには見られない魅力に出会うことが多くなった。聴き手を喜ばせようとするちょっとした工夫がいたるところにあり、それらがなんとも言えず絶妙なのだ。「天才」を描こうとして小林が見せたような力みは、そこには全く見られない。