時の流れの速さ

 このところ新年を迎えるたびに、時の流れの速さにため息をつく。以前はそれほどでもなかったのに何かが変わったのだろうか。

 昨年あったことを11つ思い出してみると、例年に比べてもなかなか面白いことが多い年だった。特に昔の友との再会は驚くほど実りあるもので、人生観が変わったといっても大袈裟ではない。昨年、大学に入った我が娘たちの成長も、自分の人生観に少なからぬ影響を与えた。こうしてみるとまんざらでもない。むしろそうしたことをじっくり味わう余裕のなさが、時の流れを速く感じさせるのかもしれない。

寿命が永遠に続くなら1年が長かろうが短かろうがそれほど問題ではない。限りある人生だからこそ、時間は出来るだけゆっくり過ぎて欲しいのだ。だが、その貴重な時間をいくら費やしても、それに勝るようなすばらしい体験というのはある。それは困難なことを成し遂げた瞬間かもしれないし何か大切なことを理解できたときかもしれない。あるいはすばらしい出会いに恵まれたときかもしれない。自分が生きてきたのはこれを体験するためなのだと納得できれば、その換わりにいくら時間が過ぎたとしても惜しくはない。そんな充実した体験に満ちた1年であれば短かいと感じることもないに違いない。

それにしても最近の日本では、そんな時間も忘れるような体験をする機会は少なくなってきている。かつての上り坂の経済に慣れてしまった日本人にとって、このところの退潮はことのほか応えている。かつて世界に敵なしだった日本のハイテク企業の落日はまさに悪夢のようだ。国のやることも、年金問題にせよ財政問題にせよ解決できるとはとても思えない。将来のビジョンが見えない中、この数年、日本中が漠然とした不安にすっぽりと覆われてしまった。

不安な社会では誰もがまず安心を求める。大学を卒業してもろくな就職先がないのでは、将来の夢を語るどころではない。不安が人々を萎縮させ、不安から逃れるために目先のことばかりに注意が行く。社会的不安の増大は1年を短く感じさせる一因に違いない。

そんな不安な社会にあって、人々はいつもスマートフォンを覗き込み、ネットやSNSに余念がない。これらは確かに便利だ。昔だったら絶対にありえなかった交流がいとも簡単に実現するようになっている。しかし、とかく便利なものは不便だからこそ得られていた大切なものを失わせるものだ。メールに慣れれば電話をかけるのが億劫になり、声を聞くことで感じられた相手の心をシャットアウトしてしまう。便利さとは裏を返せば何も意識せずに済むということだ。その結果、時間が過ぎたことにも気がつかない。そして気がつけば1年経っているのだ。

1年が短く感じられ原因はいくつかあるようだが、いずれにせよ地に足の着いた生き方ができていないからだ。1年後、充実した1年だったと感じられるよう、今年は濃い時間の過ごしかたを心がけてみようと思う。

時間とは何か 3-物理的時間の是非

 われわれは現在を生きていると思っているが、現在のみを意識しているわけではない。人と話すときには、相手がそれまで何を話したか意識しながら話すし、自分の話したことに相手がどんな反応をするのか予想しながら話している。われわれの意識には現在と同時に常に過去と未来が同居しているのである。

同様に「変化」という概念も、決して現在という瞬間だけで捉えられるものではない。変化を感じるためには過去から未来への時間の広がりがなければならないのだ。しかし、これはあくまでも時間感覚の話で、現実の時間はそうではないと物理屋は言うだろう。

物理学では時間は時計によって測定される。時計は振り子のように周期的な運動が何度繰り返されたかで時間を測る。その結果得られるのは、時刻を表す単なる数値だ。そこには過去も未来もなく、時間感覚が入り込む余地はない。

だが、ニュートンが時計によって時間を定義した際、時間は宇宙のどこでも同じように流れており、時計はそれに従って連続的に時を刻んでいると考えた。物理的には時間は単なる数値だが、その背後にはわれわれが感覚的に認識するような時間があることを暗黙のうちに想定したのだ。しかし、果たしてニュートンが定義した時計で測る時間は、彼の想定通りわれわれの時間感覚を反映できたのだろうか。

彼の期待は250年後に崩れることになる。アインシュタインの相対性理論では、時間を時計で測ることには変わりがないが、宇宙全体を一定の速さで流れる時間があるわけではなく、各慣性系で異なることが示されたのである。物理的な時間と感覚的な時間との間にズレが生じ、物理的な時間が独り歩きを始めたのだ。

アインシュタインの結論によれば、われわれの時間感覚は現実とはズレているということになるが、1つの数値で表される物理的な時間の定義には問題はないのだろうか。

実は時計も運動をしている物体に過ぎない。従って時計で時間を測ると言っても、実際には時計という物体の運動を基準に他の物体の運動と比較しているだけなのである。

確かに大砲の弾の軌道を求めるのに時計の動きと比較するのは妥当なことかもしれない。しかし、ニュートン以降の物理学は進歩し、光のような従来の物体とは質の異なるものや原子レベルのミクロの世界を扱うようになった。このような世界を解き明かすのに時計によって定義された時間が有効かどうかは怪しい。原子の世界を理解するために、時計のようなマクロな運動を基準にすることはいかにも無理がある。

実は、現代の物理学者は時間が時計で測られるということを忘れがちだ。一旦、時間を数学的に取り扱えば、後は数学的な世界で考えるほうが楽だからである。その結果、根本のところで物理的な時間の概念が揺らいでいるにもかかわらず、宇宙の年齢は137億年などと平気で言うのである。現代物理学が迷走状態を脱するためには、時間の定義にまで遡って考え直す必要があるように思えてならない。

尖閣問題の意味するもの

この10数年の間に中国は急速な経済発展を遂げたが、それを可能としたのは改革開放政策による外資の導入だった。自力の産業の育成には時間がかかる。中国は自国の労働力を提供する代わりに、海外企業を国営企業との合弁という形で取り込み、短時間で先進国の優れた技術やサービスを吸収してきたのである。

その際、人民政府が最も警戒したのが、先進技術は海外企業に握られたまま労働力のみを提供する経済植民地化だ。出来るだけ早く技術を吸収し、外資には早々に出て行ってもらうのが政府の目論見だった。だが、国営の合弁企業は政府の保護下で、海外技術に依存する体質が身に着いてしまった。リスクを犯して自ら技術開発するより、海外から吸収するほうがはるかに楽だからだ。しかし、その結果、世界第2の経済大国に躍り出たにもかかわらず、世界をリードする先進技術やブランドはほとんど無く、先進国の下請けに甘んじる構造から脱却できないでいる。にもかかわらず平均賃金は大幅に上昇し、国際競争力が低下し始めている。人民政府の焦りが伝わってくる。

 さらにここに来て中国経済はもう一つのジレンマに直面している。自らの台頭は相対的に旧来の先進国の競争力を低下させる。今回のヨーロッパの経済危機はその一つの現れだ。だが、その結果、何が起きたか。発展の原動力となってきた輸出が打撃を受け、中国自らの経済成長に急ブレーキがかかったのである。小さな国ならともかく、この巨大国家が世界に及ぼす影響はあまりにも大きい。一人勝ちはありえないのだ。

 成長のかげりは国内の様々な社会問題を顕在化させている。貧富の差の拡大に伴い拝金主義が蔓延し、労働争議が頻発している。高学歴化が進み大学進学率も飛躍的に高まったが、国内企業が育たないため、卒業しても学歴に見合った職がない。豊かさを享受するごく一部の人を除けば、多くの国民が閉塞感に苛まれているのである。

社会保障のための財政負担の急拡大も大きな問題である。一人っ子政策により急速に進む高齢化がそれに追い討ちをかける。国民の間には、生活水準が先進国に追いつく前に社会問題だけが先進国並に悪化してしまうのではないかという不安が広がっている。

こうした国民の不満はインターネットによって増幅され政府を脅かしている。政府高官の汚職問題がさらに政府への不信を増大させる。経済発展とは裏腹に共産党一党独裁による国家の統治は年々困難を増し、今や綱渡り状態なのだ。

国民の不満を逸らすには、反日と領土問題は格好の材料だ。日本企業を中国市場から締め出すと脅せば、日本は領土問題で妥協せざるを得ないという読みがある。しかし、日本を締め出すようなことになれば中国自身も深刻な打撃を受けることは明らかだ。

尖閣問題は共産党政権が体制維持を図るための道具として用いている側面が強い。その背後にはこの巨大国家が抱えるさまざまな問題が横たわっており、日本はそれに巻き込まれているのだ。簡単な解決策はありそうもない。

時間とは何か2-時間の相対性

アインシュタインの相対性理論によれば、自分の前を通り過ぎる人の時計は自分の時計よりゆっくり進む。彼はこの宇宙で時間の進み方が一様ではないことを示した。

振り子の等時性を始め多くの物理法則を発見したガリレイは、時間を測るために自らの「脈」を用いた。時計というのは周期的な運動がどれだけ繰り返されたかをカウントし表示する機械だ。振り子時計では、振り子が振れるたびに針が進み、その針が示す目盛りでどれだけ時間が進んだかを知ることができる。

ガリレイの後、ニュートンはこうした時計の動きと物体の動きの「比」を取ることで速度という概念を導入し、運動を数学的に扱うことに成功した。彼は時間が何であるかについては深入りしていない。暗黙のうちに、われわれが漠然と感じていた時間を時計の針が指し示す数値にそっと置き換えたのである。

ニュートンは、十分に正確な時計は宇宙のどこでも同じように動くと考えた。つまり時間は宇宙のどこでも一様に進むと仮定したのだ。当時、特にそれに文句をつける者はいなかった。しかし250年後、アインシュタインはニュートンの仮定が誤りであると主張した。動いている時計と止まっている時計では進む速さが異なるのだ。

ニュートン力学では、速度の加算側が成り立つ。ダルビッシュが自動車に乗って投げた球は、彼の球速に自動車の速度が加算される。同じ理屈で言えば、走っている自動車のヘッドライトの光は、止まっている自動車から出た光よりも速いはずである。ところが不思議なことに、光の速度は変わらないのである。

アインシュタインは、この「光速不変」という奇妙な現象は、移動している時計の進み方が遅くなると仮定すればつじつまが合うと気づいた。そして「光速不変」を現実として受け入れる換わりに時間の方が相対的に変化する相対性理論を作り上げたのである。

こうして時間は宇宙空間に無数に存在することになった。地球上で人が着けている腕時計は全て進み方が異なる。自分が生きた50年間に自分の親は10年しか生きておらず、親のほうが若くなってしまうというようなことも理論的には起こり得る。これは決して時間がでたらめに進むということではない。自分の時計と他人の時計の進み方の相関は、お互いが相対的にどのような速度で動いて来たか、その履歴により正確に決まるのである。

しかし、時計が遅れるからと言って時間の進み方も遅くなると言って良いのだろうか。注意すべき点は、誰にとっても自分自身の時間の進み方は常に同じだということだ。

そもそもニュートンは、自然界のさまざまな「変化」を観測するための「基準」として時計を用いた。本来主観的な時間感覚を時計という客観的なものに置き換えたのだ。その結果、時間は一人歩きを始め、アインシュタインに至り時間は相対的になったのである。

時間を客観的に扱う物理学は、果たして時間を正しく捉えているのだろうか。あるいは何か大切なものが抜け落ちてしまっているのだろうか。注意して見て必要がある。

時間とは何か2-時間の相対性

アインシュタインの相対性理論によれば、自分の前を通り過ぎる人の時計は自分の時計よりゆっくり進む。彼はこの宇宙で時間の進み方が一様ではないことを示した。

振り子の等時性を始め多くの物理法則を発見したガリレイは、時間を測るために自らの「脈」を用いた。時計というのは周期的な運動がどれだけ繰り返されたかをカウントし表示する機械だ。振り子時計では、振り子が振れるたびに針が進み、その針が示す目盛りでどれだけ時間が進んだかを知ることができる。

ガリレイの後、ニュートンはこうした時計の動きと物体の動きの「比」を取ることで速度という概念を導入し、運動を数学的に扱うことに成功した。彼は時間が何であるかについては深入りしていない。暗黙のうちに、われわれが漠然と感じていた時間を時計の針が指し示す数値にそっと置き換えたのである。

ニュートンは、十分に正確な時計は宇宙のどこでも同じように動くと考えた。つまり時間は宇宙のどこでも一様に進むと仮定したのだ。当時、特にそれに文句をつける者はいなかった。しかし250年後、アインシュタインはニュートンの仮定が誤りであると主張した。動いている時計と止まっている時計では進む速さが異なるのだ。

ニュートン力学では、速度の加算側が成り立つ。ダルビッシュが自動車に乗って投げた球は、彼の球速に自動車の速度が加算される。同じ理屈で言えば、走っている自動車のヘッドライトの光は、止まっている自動車から出た光よりも速いはずである。ところが不思議なことに、光の速度は変わらないのである。

アインシュタインは、この「光速不変」という奇妙な現象は、移動している時計の進み方が遅くなると仮定すればつじつまが合うと気づいた。そして「光速不変」を現実として受け入れる換わりに時間の方が相対的に変化する相対性理論を作り上げたのである。

こうして時間は宇宙空間に無数に存在することになった。地球上で人が着けている腕時計は全て進み方が異なる。自分が生きた50年間に自分の親は10年しか生きておらず、親のほうが若くなってしまうというようなことも理論的には起こり得る。これは決して時間がでたらめに進むということではない。自分の時計と他人の時計の進み方の相関は、お互いが相対的にどのような速度で動いて来たか、その履歴により正確に決まるのである。

しかし、時計が遅れるからと言って時間の進み方も遅くなると言って良いのだろうか。注意すべき点は、誰にとっても自分自身の時間の進み方は常に同じだということだ。

そもそもニュートンは、自然界のさまざまな「変化」を観測するための「基準」として時計を用いた。本来主観的な時間感覚を時計という客観的なものに置き換えたのだ。その結果、時間は一人歩きを始め、アインシュタインに至り時間は相対的になったのである。

時間を客観的に扱う物理学は、果たして時間を正しく捉えているのだろうか。あるいは何か大切なものが抜け落ちてしまっているのだろうか。注意して見る必要がある。

自分作り

今年の6月、久しぶりに小学校の同窓会に出席した。最初の同窓会は20年前にあり、その後4年ごとに開かれているが、第1回、第2回と出席して以来、久しぶりの参加だった。第1回の時は少年時代の思い出と目の前の姿のギャップに戸惑わされたが、今回は16年経っている割には、皆、意外なほど変わっていなかった。とはいえそれは外見上で、30代だった前回と比べれば何かが大きく変わっていた。

当時は仕事においても脂の乗り切った時期で、子供も小さく、将来に向けてやる気と希望に溢れていた。会場では相手の話を聞くより、自分のことをまくしたてる姿が目立った。しかし、今や50代も半ばに差し掛かり、そうした気張りは影を潜めた。特に地元に住んでいる連中は、気の置けない幼馴染の集まりに何にも増して安らぎを感じている様子だった。中には親しさのあまり、しばらく前に喧嘩をして絶交中だなどという子供の頃さながらの話まであった。

そうした中で、僕はあることが気にかかっていた。長い年月を経て再会した友人たちのなかで話が面白いのは、必ずしもかつての優等生でも社会的に成功したやつでもないということだ。どちらかといえば問題児だったやつが、実に味のある人間になっているのである。

彼らは、その後、何か転機があって大成功したというわけではない。挫折はしょっちゅうのことで、人生譚としては特に人に自慢できるようなものでもない。しかし、眼の奥には何かきらりと光るものを持っているのだ。

かつて勉強ができ、有名大学に進み、その後も有名企業に就職して活躍している人の話はもちろんそれなりに面白い。彼ら優等生は人並み以上に努力し社会の要求に一生懸命応えてきた人たちだ。だが、彼らの口からはびっくりするような話はなかなか聞けない。

面白い連中に共通しているのは、自分の生き方に対するこだわりが強いことだ。彼らは社会に適合するよりも、自分の生き方を選んできたのだ。もっとも、若い頃から自分の生き方などわかるはずがない。むしろ社会に適合しようにもできなかったというのが正直なところだろう。周りから認められず悩んだ時期もあったにちがいない。彼らは自分の生き方が壁にぶつかるたびに、どこかで折り合いをつける必要があった。そうしたギリギリの選択を繰り返すことで、一歩ずつ自分を確立して行ったのである。

個性というのは人と違っていることと思われがちだが、それは表面的なことで、実はその人の内部に隠れていて、人生の時々で自分自身に選択を迫り、自分を形成していくための原動力なのである。

自分が本当の自分になるために積み重ねていく時間、それこそが人生なのではないか。何かを成し遂げることが重要なのではなく、挫折も成功も自分らしい自分になるための糧ではないか。自分は探すものではなく、作り上げていくものなのだ。

時間とは何か

 先日、友人がネットで「時間とは何か」という動画を見つけて教えてくれた。そこでは、物理学者をはじめ数学者や心理学者、さらには古代ギリシャの哲学者の時間に対する考察が展開されていた。それぞれの専門家が生涯をかけてたどり着いた考え方には鬼気迫るものがある。だが、この人類古来の疑問は、そう簡単には解けそうもない。

 当の友人は、「あらゆるものが壊れ朽ちていくことこそが時間だ」という考え方に共感したようだった。巨大な建造物も繊細な工芸品も時間が経てば次第に損なわれていく。そこには確かにわれわれの時間感覚の本質の一つがある。

こうした現象は、物理学的にはエントロピーの増大を表している。エントロピーの増大と言うのは簡単に言えば、「自然は確率的に起こりやすい状態に向かっていく」ということだ。秩序だった状態は少し油断すればすぐに乱雑な状態になってしまい、その逆は起こらない。だが、この法則は時間の方向は定めてくれるが、どれだけ時間が経ったのかは教えてくれない。エントロピーの増加量と時間の経過を結び付ける方法は今のところない。

どれだけ時間が経ったのかを知るためにわれわれが用いるのは、エントロピーではなく時計ある。では、時計は時間を忠実に表しているだろうか。時計は単純化すれば周期的な運動をする機械である。ニュートンは宇宙のどこにおいても絶対的に正確な時計があると仮定し、それを基準に物体の運動を表すことで運動の法則を見出した。

この方法は成功し、運動を数学で表すことに初めて成功したと思われた。しかし一つ大きな問題があった。彼が導いた運動方程式は過去と未来について対称的になっているのである。つまり、ニュートン力学が描く世界は、ビデオの逆回しのように時間を反転しても全く問題なく成り立つのである。だが、現実にはコップを落とせば砕け散るが砕け散ったコップが元に戻るようなことは起こらない。エントロピーの増大のような不可逆的な現象をニュートン力学から導くことはできないのである。

エントロピー増大の法則は熱力学という分野で発見された。熱力学は、蒸気機関のような熱機関の効率をいかに上げるかという要求から発達した分野で、熱や温度が関係する現象をニュートン力学と結びつけることにより、例えば空気に熱を加えるとどのように膨張するのかというような問題を定量的に扱えるようにした。

熱力学では、熱機関とその周りにある熱欲との間で熱のやり取りが行われる。熱というのは分子の振動エネルギーだから、ミクロな眼で見れば分子どうしがぶつかり合いエネルギーをやり取りしている。その過程でエントロピーが増大するわけだが、なぜエントロピーが増大するかは、ニュートン力学でもその後の量子力学でも説明できないのである。

われわれは時計が時間を表していると考えているが、時計を基準に作られたニュートン力学はエントロピーの増大を説明できない。時計的な時間は、全てのものが朽ち果てていくことを説明できないのだ。何か肝心なものが見落とされているようである。

時間とは何か

 先日、友人がネットで「時間とは何か」という動画を見つけて教えてくれた。そこでは、物理学者をはじめ数学者や心理学者、さらには古代ギリシャの哲学者の時間に対する考察が展開されていた。それぞれの専門家が生涯をかけてたどり着いた考え方には鬼気迫るものがある。だが、この人類古来の疑問は、そう簡単には解けそうもない。

 当の友人は、「あらゆるものが壊れ朽ちていくことこそが時間だ」という考え方に共感したようだった。巨大な建造物も繊細な工芸品も時間が経てば次第に損なわれていく。そこには確かにわれわれの時間感覚の本質の一つがある。

こうした現象は、物理学的にはエントロピーの増大を表している。エントロピーの増大と言うのは簡単に言えば、「自然は確率的に起こりやすい状態に向かっていく」ということだ。秩序だった状態は少し油断すればすぐに乱雑な状態になってしまい、その逆は起こらない。だが、この法則は時間の方向は定めてくれるが、どれだけ時間が経ったのかは教えてくれない。エントロピーの増加量と時間の経過を結び付ける方法は今のところない。

どれだけ時間が経ったのかを知るためにわれわれが用いるのは、エントロピーではなく時計ある。では、時計は時間を忠実に表しているだろうか。時計は単純化すれば周期的な運動をする機械である。ニュートンは宇宙のどこにおいても絶対的に正確な時計があると仮定し、それを基準に物体の運動を表すことで運動の法則を見出した。

この方法は成功し、運動を数学で表すことに初めて成功したと思われた。しかし一つ大きな問題があった。彼が導いた運動方程式は過去と未来について対称的になっているのである。つまり、ニュートン力学が描く世界は、ビデオの逆回しのように時間を反転しても全く問題なく成り立つのである。だが、現実にはコップを落とせば砕け散るが砕け散ったコップが元に戻るようなことは起こらない。エントロピーの増大のような不可逆的な現象をニュートン力学から導くことはできないのである。

エントロピー増大の法則は熱力学という分野で発見された。熱力学は、蒸気機関のような熱機関の効率をいかに上げるかという要求から発達した分野で、熱や温度が関係する現象をニュートン力学と結びつけることにより、例えば空気に熱を加えるとどのように膨張するのかというような問題を定量的に扱えるようにした。

熱力学では、熱機関とその周りにある熱欲との間で熱のやり取りが行われる。熱というのは分子の振動エネルギーだから、ミクロな眼で見れば分子どうしがぶつかり合いエネルギーをやり取りしている。その過程でエントロピーが増大するわけだが、なぜエントロピーが増大するかは、ニュートン力学でもその後の量子力学でも説明できないのである。

われわれは時計が時間を表していると考えているが、時計を基準に作られたニュートン力学はエントロピーの増大を説明できない。時計的な時間は、全てのものが朽ち果てていくことを説明できないのだ。何か肝心なものが見落とされているようである。

モーツァルト小論

指揮者のニコラス・アルノンクールが、モーツァルトは「10代にして音楽によって人間のあらゆる感情を表現できた」と語っている。だが、彼はモーツァルトが単に人間の感情を自由自在に表現できると言いたいわけではない。自ら指揮棒を振りその音楽を演奏するやいなや、そこには日常的には感じることのない純粋でデリケートな感情が次々と溢れ出ることに驚嘆し圧倒されたのである。人間の心は本来これほど自由で豊かな可能性を持っているのか。彼はモーツァルトから人間の感情の奥深さを教えられたのだ。

モーツァルトがもっともこだわった音楽はオペラである。オペラは当時の音楽芸術の最高峰で、オペラで成功することは最高の音楽家である証しだった。だが、理由はそれだけではない。主役にも脇役にもそれぞれの役割があり、それらを音楽によって思い切り表現することができるオペラという形式はモーツァルトにぴったりだったのである。

ピアノコンチェルトもまたモーツァルトにとってはオペラだった。各パートの楽器は、プリマドンナであるピアノを控えめに支えていたかと思えば、時にはするりと前に出てきて愛嬌ある台詞を発する。どの楽器も人格を備え個性を競っている。絶妙なタイミングで合いの手を入れたかと思えば、突如、全ての流れを断ち切り劇的な展開に導いていく。そこにはまさに、人が日常で感じる「あらゆる感情」をはるかに越えた多彩な世界がある。

昔から、モーツァルトは天才で何の苦もなく作曲できたと言われてきたが、そうした考えは多分に天才への憧れやヒーローへの期待から来ている。なかなか就職が決まらず焦りまくり、失恋で落ち込んで容易に立ち直れない姿にはもとより天才の面影はない。確かに彼には音楽を操る特別な才能があったが、だからと言ってその才能で人の感情を嘘なく表現することは楽ではない。極度の集中を必要とし、命を縮めるほどの過酷な作業であったに違いない。無論、何時もうまく行くとは限らない。彼の作品といえども相当の出来不出来があるし、多くの作品が途中で行き詰まり完成できずに終わっているのである。

宗教音楽で特に未完が多いのは、一つには娯楽音楽に比べて自らに高い完成度を課したためであろうが、そもそもオペラが得意なモーツァルトにとって宗教音楽は彼の表現力を特定の領域に閉じ込めてしまうものだった。モーツァルトにはやはり生を表現する音楽こそふさわしい。レクイエムが未完に終わった理由についてもいろいろ言われているが、結局、彼の手には余ったということではないだろうか。

小林秀雄に「モオツアルト」という傑作がある。僕自身、そこで展開される渾身のモーツァルト論に大きな影響を受けてきた。しかし、最近、自分でピアノを弾いていると、小林のモーツァルトには見られない魅力に出会うことが多くなった。聴き手を喜ばせようとするちょっとした工夫がいたるところにあり、それらがなんとも言えず絶妙なのだ。「天才」を描こうとして小林が見せたような力みは、そこには全く見られない。

セザンヌの魅力

 先日、国立新美術館で開かれている「セザンヌ-パリとプロヴァンス」展に行った。セザンヌといえばまず思い浮かぶのが、サント・ヴィクトワール山の風景画だろう。しかし、かつては構図的にも色彩的にも僕には何が面白いのかさっぱりわからなかった。ところがいつからかこの絵に何か胸騒ぎのようなものを感じるようになったのである。だが、何が自分の心を揺さぶるのか良くわからなかった。今回の展覧会へは、なんとかその正体を突き止めたいという永年の思いを胸に臨んだのだった。

こちらの思いが通じたのか、セザンヌの風景画は11点がまるで僕の疑問に答えるかのように優しく迎えてくれた。そして、彼の風景画の秘密も包み隠さず教えてくれるようだった。ゼザンヌにとって最も大切なことは自然を観察することなのだ。セザンヌの色彩は決して計算によって出てきたものではない。セザンヌは自然を見て、そこに彼独特の色彩を「発見」する。それは頭の中だけで想像するのとは根本的に異なる。「発見」自体にセザンヌの創造力が凝縮されているのだ。それがわかった途端、筆のタッチの一つ一つが生き生きと動き始めた。僕は彼の絵の誕生の瞬間に立ち会うことができたように感じた。サント・ヴィクトワール山を繰り返し描いたのは、そこに彼の理想の色彩を「発見」するためだったのである。

今回の展覧会では、風景画だけでなく、身体、肖像、静物とカテゴリー分けして展示されており、改めてセザンヌの多様な世界を知ることとなった。

例えば、彼の人物画には風景画とは全く別の魅力がある。これまで、セザンヌは色彩の魔術師であり、人物といえども色彩のためのモチーフに過ぎないと思っていた。しかし、彼の肖像画には、実は描かれたモデルと作者の関係が濃厚に表れている。絵を描くという行為によって、描かれる人物と画家との関係が、普通の人間関係では考えられないような緊密さに達している。その結果、被写体の人間性が見る者に強烈に伝わってくるのである。

セザンヌは決して感性だけの画家ではない。彼の絵には彼が人間に感じる喜びが注ぎ込まれているのである。

セザンヌがピカソなどの20世紀の絵画に大きな影響を与えたことは有名な話だが、その先進性が最も端的に現れているのが静物画だろう。だが、僕はこれまでに彼の静物画を理解できたと実感したことがなかった。今回の展覧会では、彼の最高傑作の一つ、「りんごとオレンジ」が出品されていた。その気品を湛えた迫力ある静物画の前に、だから僕は特別に意気込んで立っていた。しかし、さまざまな角度から見た対象が同一平面に配される独特の構図はやはり簡単には理解できない。作者のさまざまな意図と工夫を感じることはできても、その高度な絵画的世界を解き明かすことは、結局、今回もかなわなかった。

「りんごでパリ中を驚かせてやる」と言い放ったセザンヌが到達した境地は、当分、僕を惹きつけて止みそうもない。