経済成長中毒

 日本経済新聞の7月初旬頃までの「脱原発」に対する批判は相当のものだった。原発事故を受けて安易に脱原発の気運が高まっているが、このまま原発の稼動がままならなければ電力事情が悪化し、日本の国際競争力にさまざまな悪影響が出るというものだ。確かに、気分だけで原発反対を叫ぶのは無責任だが、福島第一原発の事故直後であることを考えると、毎日のように大きな紙面を使って原発の必要性を訴える姿は、特定の企業の事情をヒステリックに代弁しているようで、非常に浅はかな印象を受けざるを得なかった。このところ節電の効果などで電力需給に余裕が出て来て日経の論調も緩やかになったが、原発という難しい問題をこれほど一方的な視点で論じる姿はかなり異様に映る。

 日経の論調はあくまでも経済優先である。だが、その経済優先策がこの度の原発事故を招いたのではないか。3年前のリーマンショックの際、それまでの経済最優先の価値観に世界中で反省が起きた。しかし、結局、何も変わらなかったようだ。いまだに日本も世界も経済成長に代わる新たな方向性を見出せずにいるのである。

 それにしても、経済最優先の構造から抜け出すのは、なぜそれほど困難なのだろうか。それは恐らく資本主義の根本にあるのが人間の欲だからだ。エアコン、自動車、インターネット...。人は一度便利なもの、快適なものに慣れるともはや後戻りはできない。資本主義はそうした人間の弱みを原動力にしている。もちろん、便利さや快適さそれ自体が悪いわけではない。しかし、自動車に乗って歩かなくなれば健康にはマイナスだ。つまり、便利さの代償として健康を失っているのだ。さらに、ハイキングなどで歩くことが億劫になれば、自然と親しむ機会も知らぬ間に失っているかもしれない。便利さが必ずしも生活を豊かにするとは限らないのに、人はそれに抗うことができない。資本主義社会というのは、実は便利さや快適さという麻薬に犯されたある種の中毒社会なのである。

 だが、そこで生き残りをかける企業は、麻薬であれ何であれ売っていくしかない。そこに倫理を期待しても限界がある。従って、もし資本主義社会が本当に人々の求めるものを提供できるようになるためには、消費者が目覚めるしかない。しかし、その前にわれわれは自分達がこれまでに失ってしまったものを、もう一度じっくり見直して見る必要があるのではなかろうか。

先日、NHKの番組で、北極探検家の荻田泰永氏が次のように語っていた。「北極には何もない。しかし、だからこそ感覚が研ぎ澄まされ、日常では気づかないさまざまなものが感じられるようになる。」、と。かつてわれわれは、便利さや快適さよりもずっとすばらしいものをたくさん持っていたのではないだろうか。経済成長が豊かさをもたらすと信じてきたが、実はそのために多くのものを失ってきたのではないか。その結果が、うつ病が蔓延する今の社会になってしまったのではないのか。このあたりで立ち止まり、自分達の価値観を根本的に見つめ直してみる時期に来ているのではないだろうか。

日光沢温泉

旅行で同じ場所に何度も訪れることはなかなかないものだが、その数少ない例外の一つが日光沢温泉である。鬼怒川の源流域に位置する秘湯で、女夫渕温泉で車を降り、川沿いを2時間ほど歩いて行く。途中、八丁の湯と加仁湯があるが、この両者は林道を利用したバスでの送迎があるため、徒歩でしか行けない日光沢温泉とは全く客層が異なる。

 最初にここを訪れたのは、もう20年以上も前の5月初旬だ。その時の目的地は日光沢温泉ではなく、その先の鬼怒沼という高層湿原だった。家内と二人で雨の中、テントを担いで雪道を3時間ほど登って行ったが、湿原にはテントを張る場所がなく、避難小屋に泊まることになった。その晩、上空を前線が通過し、ものすごい風が一晩中鳴り止まず、真っ暗な中、2人だけで不安な一夜を過ごした。

夜が明けても、まだ猛烈な風が残っていた。しかし、おそるおそる外に出てみると、そこには息を呑む光景が広がっていた。真っ青な空に白い雲が切り裂かれるように千切れ飛び、周りを雪に縁取られた湿原が朝日の中でこの世のものとは思えないきらめきを見せていた。湿原の向こうには、頂上付近に雪煙を舞い上がらせる「日光白根」が迫り、振り返れば、尾瀬沼の主「燧ヶ岳(ヒウチガタケ)」が、まだ深く雪に閉ざされた尾瀬の静寂を守るようにじっと佇んでいた。

美しいといわれる鬼怒沼でも、これほど美しさを見せる瞬間はそうはないだろう。それを妻と二人で独占している。感動が何度も全身を貫いて行った。

その時のような絶景は望めないが、その後、日光沢温泉に来るたびに鬼怒沼に登っている。ここの魅力を全身で味わうためには、鬼怒沼まで汗をかくことは不可欠なのだ。

日光沢温泉を切り盛りされる若いご夫婦のサービスは誠実かつ意欲に溢れており、独自の充実感を与えてくれる。登山で適度に疲労した体を温泉に浸し、掃除の行き届いた板の間の廊下を裸足で歩くと、足の裏から気持ちよさが全身に広がっていく。小屋付近で採れた山菜と岩魚を使った料理は野趣に溢れ、素朴だが滋味があり、全身に命を吹き込んでくれる。かつては辺りを散策したり渓流釣りもしたが、最近は鬼怒沼に登る他は何もせず、ここでゆっくりするのが最高だと悟った。

最近、若いカップルも目立つが、猛者もいる。風呂場で一緒になった60過ぎのお年寄り。金精峠から根名草山を越えて来たという。「雪が多くて大変だったでしょう」と聞くと、道に迷って一晩ビバークしたという。全く、命知らずもいたものだ。したたか酒を飲みながら、「カモシカの肉は牛のような味がするんだよ」と上機嫌で話してくれる「マタギ」の斉藤さんも常連の一人。唖然とするような話には、自然と共に生きるパワーが溢れている。

夜も更け、天の川を見上げながらぬるめの露天風呂にゆっくり浸かると、すぐ下を流れる沢の音にけだるさを誘われ、次第に心地良さに包まれて行く。

日光沢温泉は、訪れるたびに魅力が増す不思議な場所なのである。

自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

 現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

 現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

原発事故が迫るもの

 福島の原発事故が発生して数日後、友人から、「原発は、スイッチを切ればすぐに止まると思っていた」という声を聞いて驚いた。多くの人が原発の危険性をあまり認識していなかったのだと改めて思い知らされる気がした。

 原発では、ウランの核分裂によって熱を発生させる。核分裂の際、ウランの原子核は二つの原子核に分かれる以外にいくつかの中性子を放出する。その中性子が他のウラン原子核に当たり吸収されるとその原子核も核分裂を引き起す。さらにその際発生した中性子が他の原子核の分裂を引き起し、反応は次々と連鎖的に起こるようになる。このような連鎖反応が一気に起これば原子爆弾となるが、原発ではウランの濃度を5%程度(原爆では90%)に抑えることで、緩やかに連鎖反応を起させている。

 こうした連鎖反応はスイッチを切っても止まらない。時間をかけて核燃料の中に制御棒を差し込み、中性子を吸収してしまう必要があるのだ。しかも、制御棒を差し込んでも熱の発生はすぐには止まらない。連鎖反応は止まっても、ウランの核分裂によって生じた不安定な原子核がさらに核分裂して熱を出し続けるからである。もし冷却をやめればたちまち温度が上がり核燃料は溶けてしまう。今回の事故では、なんとか連鎖反応は止められたが、その後の冷却機能が働かず、核燃料の一部が溶けたと考えられている。

原発事故が他のプラントなどの事故と全く異なるのは、放射能(放射性物質)が相手だからである。放射能が発するガンマ線を防ぐには10cm以上の厚さの鉛の壁で身を包まなければならず、現実的には不可能だ。従って、もし施設周辺の放射能がある限度を越えれば、人間は全く原子炉に近づくことができなくなり手の施しようがなくなる。

 今回の事故は、従来から指摘されていた津波の危険性を無視したために起こった人災だと糾弾する声が多い。確かに、それは問題だろう。しかし、どのような対策を講じようが、絶対に安全な原発などどこにもない。9.11にニューヨークを襲った旅客機によるテロ攻撃にもびくともしない原発などありえようか。原発事故は常に起こりうる。そして、一旦、事故が起こってしまったら、世界中が放射能に汚染される恐れがあるのだ。原発事故が人災か否か以前の問題として、原発を造ること自体が人災なのである。

 では、人類はこれまで、なぜそんな危険な原発を造ってきたのだろうか。電力を安く安定的に供給することは、一国の経済の根幹に関わる重大事だ。原発は自国の経済的な優位性を確保するための重要な手段の一つなのだ。原発の危険性を指摘する声は、そうした経済的優位性の前に退けられてきたのである。これは日本だけの話ではない。世界中が自国の経済的利益のために原発の危険性から目を背けてきたのである。

しかし、これを機に世界中で多くの人が原発の危険性を再認識したに違いない。そして、生命より経済を優先する愚かさに気づいたに違いない。今こそ正常な価値観を取り戻し、脱原発を図らなければ、いつか必ず致命的な事態が起こるに違いない。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

ファラデーの嘆き

 電気と磁気の効果は現代の科学技術において不可欠である。モーターは電磁気的な力の最も直接的な利用法だ。電波も電磁気的な現象であり、テレビや携帯電話などあらゆる通信技術を支えている。電気を流さなければ動かない現代の家電やIT関連装置も、すべて電磁気的効果の恩恵を受けている。電磁気現象をいかに使いこなすかが、20世紀以降の科学技術の進歩そのものだと言っても過言ではない。

19世紀より前は、電磁気現象の利用はせいぜい方位磁石くらいのもので、電気と磁気の相関も知られていなかった。ところが1820年に、電線に電流を流すと近くに置いた方位磁石が動く「電磁気現象」をエルステッドが発見した頃から、電磁気学は急速に発展し始め、19世紀後半にはニュートン力学と並ぶ物理学における一大分野を形成するに至る。

その過程で多くの物理学者が登場したが、イングランド出身のファラデーとスコットランド出身のマクスウェルの貢献度は別格である。ファラデーはマクスウェルより40歳ほど年長で、マクスウェルが大学を卒業する頃にはすでに物理学会の重鎮だったが、その新進気鋭の若手を尊敬し、マクスウェルもファラデーに対して心から敬意を払っていた。しかし、物理学の歴史においてこの2人ほど対照的な研究者もいないのである。

抜群の数学力に恵まれたマクスウェルは、複雑な電磁気現象をたった4つの微分方程式(マクスウェル方程式)にまとめあげ、しばしばニュートン、アインシュタインと並ぶ物理学史上の巨人とされる。一方、ファラデーの数学に関する知識は初等数学以上のものではなかったらしい。そのことが原因で、ファラデーの考え方を評価しない人たちがいた。数学を駆使した、いかにも難しい理論こそが物理学であるという偏見は、当時からすでに定着していたのである。だが、彼には数学力にも勝る宝、すなわち優れた実験技術と、そこから理論を導き出す抜群の眼力が備わっていたのである。

現代物理学においては、数学の権威はさらに支配的である。しかし、ニュートンもアインシュタインも、最初から数式を使って考えていたわけではない。マクスウェル方程式も、ファラデーが直感的に見抜いた物理的なイメージ抜きには生まれ得なかった。

数学は、それが一旦書き下されると独り歩きを始める。数学には数学的なイメージがあり、それに慣れると物理学者は数学がつくり上げた美しい世界に安住し、いつしかそこから抜け出せなくなる。確かに数学的な手法は、さまざまな現象を簡潔に説明する強力な武器であるが、数学イコール物理学ではない。だが、多くの物理学者は、新たな数学を駆使することこそが新たな物理学を生み出すことだと信じ込んでいる。

ここ数十年の物理学の発展を見ると、物理学的に脆弱な土台の上に建てられた数学的な高層建築を、ひたすら上へ上へと伸ばそうとしているように見える。新たな数学を操ることが新たな物理学であるかのような驕りが物理学を迷走させている。ファラデーが生きていたら、そう嘆くのではないだろうか。

生き方さがしの出版記

 昨年12月、これまで『月』に投稿してきたエッセイをまとめて、「生き方さがしという選択-発見と考察のバリエーション」として出版した。

当初は、これまで書き溜めてきたものをまとめるだけだから大したことはないと考えていたが、出版が終わってこの1ヵ月半あまりを振り返ると、その前後で自分の中で大きな変化があり、改めて出版ということの重みを感じている。

 今回、最も苦労したのは本のタイトルだった。この7年余り、特にテーマを定めずに書きたいことを書き散らしてきた。むしろ自分の中にあるさまざまな面を満遍なく出そうと心がけてきた。それを一つのタイトルでくくることなど不可能に思えた。代表的なエッセイのタイトルをそのまま本のタイトルにしてしまうという手もあったが、それではこれまでのエッセイをただまとめただけに終わってしまう。せっかく本として出版するからには、新たな「作品」として世に問いたかった。

 タイトルを考えながら過去のエッセイを読み返しているうちに、エッセイをいくつかに分類することができたので、それを元に章立てを行った。しかし、それらを統一するテーマとなると、やはり適当なものは思い浮かばなかった。代わりにある疑問が浮かんだ。そもそも自分は何のためにエッセイを書いてきたのだろうか。するとそれに対して、「生き方さがし」という答がすぐに浮かんだのである。僕はこのエッセイを書きながら、自分の生き方をさがして来たのだ。生き方さがしの軌跡として見直すことで、これらのエッセイは新たな価値を持ち、次のステップへとつながっていくのではないか。「生き方さがしという選択」というタイトルはそうした経緯で生まれたのである。

 逆にこのタイトルは、僕に改めて「生き方さがし」について考えさせることになった。偉そうなタイトルをつけてしまったが、僕の生き方さがしはどれほどのものだろうか。生き方をさがしてソニーを辞めたことは確かだが、自分は何か確固としたものを見つけたのだろうか。いま、自分がやっている仕事で、自慢できるような成果は何もないではないか。

 しかし、そんなことを思い悩んでいるうちに、仕事を成功させようと焦っている自分が一歩離れたところから見えてきたのだ。問題は、仕事がうまく行くか行かないかではなく、仕事に対して自分らしい取り組みをしているかどうかということではないのか。相撲でも、「大切なのは勝敗ではなく自分の相撲を取りきること」と言うではないか。自分らしさを存分に出したときに結果はついてくるものなのだ。手詰まりなのは、本気で自分の生き方を追求していないからなのだ。

ソニーを辞めて生き方さがしの旅に出たと言えば悲壮な選択に聞こえる。しかし、自分らしく生きることは、実は最も力強い生き方ではないだろうか。そのことに気がついたことで、僕は自分の中で新たに力が湧き起こるのを感じているのである。今回の出版は、改めて自分の生き方を見直す貴重な機会となったのである。

格差と平等

上海でも日本の焼肉は人気だが、価格は日本並みかそれ以上である。しかし、そこでバイトしている人の時給は10元(130円程度)にも満たない。これでは、いくら頑張っても焼肉を食べられるような身分にはなれそうもない。

だが、こうした人件費の安さは、雇う側にとっては大きな強みとなる。安い労働力は、高い利益率を生む。中国でもし高品質の商品やサービスを扱って成功すれば、短期間に日本では考えられないような巨大な富を築くことができるのだ。安い労働力は、ただ輸出競争力を高めるだけでなく、中国の人々に成功のチャンスと意欲を与えているのである。

一方、日本では何をやっても人件費が重くのしかかる。企業は、この数年、本格的に人件費の削減を進めている。終身雇用をやめ、また、正社員を減らして派遣社員に切り替えた。最近では、かつては当たり前だった社内研修の費用を抑えるために、あえて新卒者を採らず、即戦力となる社員のみを中途採用で採るケースも増えているらしい。その結果、日本でもじわじわと格差が広がり始めている。中国に対抗しようとするうちに、中国の格差が回りまわって日本に輸入されてきているのである。

しかし、果たしてこれで良いのだろうか。目先のことばかり考えて人件費をカットすれば、結局、日本全体の購買力が低下し、自分で自分の首を絞めることになる。確かに、周りが全て非正規雇用者を多用するなかで、自分のところだけ終身雇用を続ければ倒産してしまうかもしれないが、長い目で見れば、非正規雇用者が増えることは企業にとっても日本経済にとっても決してプラスではない。

人経費だけではない。コストダウン、合理化努力と言いながら、やっているのは仕入先への値引き要求ばかりだ。もちろん、無駄が多く合理化余地が十分あった時代はそれで良かったが、限度を超えた値引きの強要は、仕入先の経営を圧迫し、品質の低下を招く。確かにビジネスは厳しい。だが、人件費を削ったり、仕入先いじめをする前にやるべきことはないのだろうか。中国の安い労働力に対して、そうしたコストダウンだけで対抗していては、日本経済は自滅の道を歩むしかない。

ところで、ここ数年、日本の温泉ツアーが人気だ、日本の洗練されたもてなしは決して中国では味わえないものだ。マンガやゲーム、若者のファッションなども中国人を惹きつける日本の文化の一つだ。中国から見れば、日本にはすばらしいものがたくさんあるのである。しかも、彼らが知っているのは日本の魅力のほんの一部に過ぎない。

こうした日本独特の文化が発達したのは、誰もが平等に暮らせる日本社会があったからではないだろうか。格差を利用して発展を続ける現在の中国のような社会では、そうした成熟した文化が大衆から生まれることは当面ありそうもないからだ。

そろそろ安易なコストダウンから脱却し、自分たちの強みを活かした新たな付加価値の創造を、今こそ真剣に考えるべきときではないだろうか。

ソニーが本当に失ったもの

かつてソニーというブランドには独特の響きがあった。価格は高かったが、けっして期待を裏切られることはなかった。ソニー製品を選ぶということは、違いがわかることの証であり、特別のステイタスをもたらしてくれたのである。

 巷では、そうしたソニーに対して、日本を代表するグローバル企業であり、そこに働く人たちは垢抜けて颯爽としているかのようなイメージがある。だが、入社してみると、大きなギャップがあった。実際には泥臭く、人間臭い会社だったのである。皆、不思議なほど親切で、家族のような暖かさがあった。ある意味で典型的な日本的な企業だったのだ。だが、今にして思えば、そうした環境こそが、日本人の持ち味が存分に生かし、世界を席巻するパワーを生み出していたのではないだろうか。

ソニーを支える主力製品の各部門には、必ずと言っていいほど個性豊かな大物がいた。彼らも決して垢抜けたエリートタイプなどではなかったが、だからと言って町工場の職人さんとも違っていた。独特の創造力に溢れ、自らの技術が世界のソニーを支えているという確固たる自負を持っていた。だが、その一方で、ソニーブランド自体が彼らの自信を裏付けていたのも事実だった。会社と社員は、互いに媚びることなく、互いの力を高め合っていたのだ。

それにしても入社当時は、社内のいい加減さに驚かされた。意味の良くわからない企画が予算会議ですんなりと通ってしまう。あいつなら何かやるだろうと言うのだ。必ず儲かると企画書で説得できなければ、決して予算の降りない昨今では考えられない話だ。しかし、このアバウトさこそ、言いたいことを言い、やりたいことにチャレンジできる土壌をつくっていた。そして誰も思いつかないアイデアを生み出す源となっていたのである。

 しかし、こうしたソニーの文化は、ある時期から急速に損なわれていった。いつしか、何かにつけて「成果」とか「利益」いう言葉が振り回されるようになり、誰もが常識的なことしか言わなくなった。前CEOの出井伸之さんが社長に就任した1995年頃には、すでにこの症状はかなり進んでいた。

出井さんはしばしばソニー凋落の戦犯のように言われることがあるが、僕はそうは思っていない。時代は当時、アナログからデジタルに、そしてソニーが従来得意としていたビデオやオーディオなどのパッケージメディアからインターネットの時代へと急速に移りつつあった。ソニーはかつての強みを発揮できない状況に追い詰められていたのである。そうした危機を、VAIOやプレイステーションの立ち上げで何とか乗り切ろうとした出井さんの作戦は理にかなっていたと思う。

だが、残念なことに、ソニー文化の崩壊は、まるでそれが会社の方針であるかのように容赦なく進んで行った。個々のメンバーの能力が発揮されなければ、いくら経営に腕を振るったところで何も出てこないのは自明のことだ。ソニーが本当に失ったものは、社員が存分に創造性を発揮できる環境そのものなのである。はたして経営陣はそのことに気がついているのだろうか。

意思を育むものとしての生命

 生物を特徴づけるものに合目的性というものがある。ヒラメの表面が海底の砂地とそっくりの模様に変化して自分の身を守ったり、楓の種がヘリコプターのように宙を舞ってできるだけ遠くまで自分を運ぶ巧妙な仕組みを見ると、あたかもそうした生物達は、生存に有利になるように自らの「意思」でそうした機能を身につけたように見える。

 しかし、脳のない楓に果たして「意思」などあるだろうか。もし「意思」があったとしても、自分の体を改造することなどできるのだろうか。もとより進化論は、そうした「意思」を真っ向から否定する。あくまでも突然変異によりある機能を備えるに至った生物が、たまたま他の生物に比べて生存に有利であったがために生き残ったというのが進化論の主張である。現代の分子生物学も進化論の主張を裏付ける。遺伝やたんぱく質合成の仕組みなど、細胞内で起こるさまざまな現象はすべて物理化学的に説明でき、そこに何か物理法則を超えた「意志」のようなものが介在する証拠も必要性も見つかっていないのだ。

 だが、このような進化論や分子生物学の考え方を延長していくと、人間の行動にも「意思」が入り込む余地はないということになる。シェイクスピアがマクベスを書いたのも、アインシュタインが相対性理論を創り出したのも、単なる物理法則の結果ということになる。もちろん、脳の発達した人間の行動は複雑だ。だが、脳といえども細胞からなり、その働きは物理的な原理に従っているはずであり、そこに「意思」が介入する余地はない。人の行動が「意思」によるものであるかのように見えるのは、それを見た人がそう感じるからであって、「意思」という何か実体があるわけではない。人間の「意思」も楓の「意思」も、そういう意味では変わりはないのだ。

 では、自分の「意思」はどこから来るのだろうか。自分はさまざまなことを「意思」によって決めている。時には不屈の努力を続け、苦渋の決断をしているではないか。しかし、客観的に見れば、そうしたことも脳細胞の働きによるということになり、「意思」の出番はない。自分の「意思」を客観的に導き出すことはできないのだ。客観的に導き出すということは原因と結果の問題になることを意味し、そこに「意思」が入り込む場所はないのである。従って、自分という生命がある限り自分に「意思」があると無条件に認めるしかない。

 人は生命に対して特別の思いを持っている。「生きている」という言葉には、科学を超えたものが感じられる。それどころか、科学と相反する響きすらある。それは、「生きている」ということが「意思」と密接に結びつき、生命を単なる客観的な対象から区別しているからに他ならない。

 近年、分子生物学の進歩に伴い、生命の研究はますます分析的になりつつある。しかし、「意思」を育むことが生命の本質であるとすれば、ますますその本質を遠ざけることになる。分析全盛の今こそ、「意思」を見直すことが求められているのではないだろうか。