ストレスを避けるスマホ社会

 先日、NHKのある番組で道徳教育の問題を取り上げていた。ネットの影響による最近の子供の常識のなさを観ていると何らかの対策が必要だと感じるが、国家主導の道徳教育でそれが何とかなるとは思えない。とはいえ、家庭だけで解決できるレベルでもなくなってきている。番組を見ているうちにこちらも頭が痛くなってきたが、ふと、問題の所在は全く別のところにあるのではないかと思い至った。

 そもそも道徳などというものは、社会との交流なしに身に付くはずがない。周りを気遣うことの大切さを実感するには、実際に町に出て経験することが必要で、学校で美談ばかり聞かせても意味がない。子供たちの道徳観の欠如の根底には、子供同士、あるいは社会と子供が直に交流する機会の不足があるのではないか。

 今の子供たちは、実社会との交流よりもネット社会に慣れている。子供同士の人間関係も希薄だ。友達同士で集まっても、各自が勝手にゲームに没頭しているようでは人間関係とは言えない。

 僕が子供の頃は、好きな友達もちょっと嫌な奴も一緒に遊んでいた。だからいつも人間関係は微妙だった。いじめる奴がいれば、いじめられている奴の味方になる者もいた。親しい仲間同士でもしょっちゅう衝突があった。今思えば、かなりストレスのある環境だが、当時はそれが当たり前で、それでも十分楽しかった。

 誰もがこうした環境のなかでさまざまな体験をすることにより成長した。問題児も次第に広い社会に出るにつれて人間関係の中で揉まれ、自然に常識をわきまえるようになった。そこにはいつもストレスがあったはずだが、それを乗り越えることで一人前になったのだ。だが、最近は子供に限らずおとなもそうしたストレスを避ける傾向にある。

 その背景には、スマホに象徴されるIT技術の進歩がある。もともとスマホは情報の伝達を助けるための技術である。確かにネットに接続すればどこにいても世界中の情報が得られるし、LINEを使えば誰にでもいつでも要件を伝えられる。SNSの発達は、アラブの春に象徴されるような大きな社会的ムーブメントをも可能にした。一見、コミュニケーションは高度化したかに見える。

 しかし、そうした派手さの裏で人と人の直接の交流は明らかに減って来ている。スマホによる交流の方がストレスが少ないからだ。LINEやFacebookの急速な普及は、単に便利さだけによるものではなく、そこではストレスなく自己主張できるからなのだ。

 自動車の普及で人類は歩かなくなり、運動不足からさまざまな健康上のトラブルに悩まされることになった。一方、スマホの普及は人間同士の直接の交流を減らし精神的な成長を阻害している。その結果、ストレスに脆く粘りのない不安定な社会が形成されつつある。このところ運動不足を補うためにはジムに通う人が増えたが、スマホによって失われた精神的な強さを補うためのリハビリが求められる日も近いうちにやって来るのだろうか。

フリー社会

 ネット社会の大きな特徴の一つは、さまざまなサービスが無料(フリー)で受けられることだ。かつてGoogle Mapが登場した時、このような便利な地図サービスがなぜ無料で使えるのか誰もが不思議に思っただろう。おかげで当時何万円もしていた多くの地図ソフトはたちまち姿を消してしまった。

 普段ネットを観る時、われわれは当たり前のようにGoogleやYahooの検索システムを用いている。もはやそうした検索システムが無料であることに疑問を感じる人はいない。しかし、検索システムなしではネットの利用はほとんど不可能だ。ある日、Googleがそのシステムを、突如、有料化したとしたら、ユーザーはお金を払わざるを得ないだろう。しかも、こうしたサービスの提供にGoogleは莫大な費用を投じている。なにゆえGoogleはそうしたサービスを無料にしているのだろうか。

 もちろん、Googleは何らかの形で収益を上げている。メインはネット広告だ。Googleはユーザーが検索した全ての履歴を記録している。その人が何を探し何を買ったのか、スポーツに興味があるのか政治に興味があるのか、どのアイドルに興味を持っているのか、全ての情報は蓄積され分析される。そうした膨大な情報に基づき、その人が今まさに求めている情報を広告としてパソコンやスマホに表示するのである。こうしたシステムは日夜洗練されており、将来的にはその人の性格や行動パターン、人間関係から人生観に至るまでユーザー当人以上にGoogleが知っているという時代がくるだろう。Googleにとっては、検索システムを無料化しても、それを補って余りある見返りがあるというわけだ。

 しかし、無料化の理由はそれだけではない。ネット業界ではネット上のサービスを無料化し、別のところでその分を回収するというビジネスモデルが徹底的に研究されている。広告の場合には、広告を出す企業がお金を出す。ネット上のサービス自体が物品の販売促進になる場合は、もちろんそれを買った一部の人が負担することになる。かつてはサービス自体に課金するケースもあったが、無料サービスが急増し、無料だけで十分足りるようになると、特別な場合を除き有料サービスは見向きもされなくなってしまったのだ。

 もちろん、無料化がいつもうまく行くとは限らない。無料で提供する分をどこかで取り返さなければ、そのサービスは破綻する。多くのサービスがそのギリギリの線で運用されている。その代表例がFacebookだ。いまやSNSの雄となったFacebookだが、広告収入を増やそうとすればFacebookというブランドの価値が下がってしまうというジレンマがあり、永年にわたって収入より出費の方が多い状況に苦しんできた。投資家は将来、Facebookという無料サービスが莫大な利益をもたらす方法が見つかることを期待しているが、今でもそれは未知数なのである。

 フリーは必ず誰かがそれを負担することが必要だ。だが、その一定の負担が無限のフリーサービスを生み出す。フリーは、従来の価値観を覆す現代の打ち出の小槌なのである。

ネット新世代

 このところスマートフォンの無料通信ソフト、LINEが急速に広まったことにより、中高生の間では、いわゆる既読スルー(KS)が問題となっている。LINEではメッセージを読むと相手に既読通知が届くため、読んだらすぐに返事をしないと相手はわざと無視されたと感じることになる。その結果、メッセージを受け取ったらすぐに返事をしなければならないという強迫観念が常に中高生たちを覆い、大きな精神的な負担となっているのだ。

 同様の現象はかつて携帯メールが普及した際にもあったが、携帯メールが1対1であるのに対してLINEはグループ内の全員が同時にメッセージを受け取る。グループで情報を共有できる利点がある反面、常にグループ全員に気を使う必要があり、下手をすれば村八分にされる恐れがあるのだ。

 そもそもメールなどの短文による連絡は誤解を生みやすい。冗談で言ったことが本気で受け取られたり、好意を悪意と受け取られることもある。その微妙なすれ違いが何かのきっかけでグループ内で増殖し、特定のメンバーに対するいじめに発展することもあるのだ。

 いろいろな人間関係の中で生きてきた大人たちにとっては、LINEは単なる道具に過ぎず、既読スルーなど理解できないかもしれない。しかし、人間関係に対して免疫がななく、LINEへの依存度が過剰な中高生にとっては、その影響は計り知れないものがある。

 恐らくLINEが開発された当時は、このような状況は予想できなかっただろう。もともとFacebookのような不特定多数に広がるネットワークに個人情報上の不安を抱いたユーザーに対して、グループ内のみに範囲を限定することでより安心してコミュニケーションの場を提供することがLINEの狙いだった。しかし、個人でも不特定多数でもない「グループ」という中間的な規模が、思いもよらぬ複雑な人間関係を生むことになってしまったのである。

 スマートフォンの登場によりインターネットが身近になり、実社会で人間関係を築く前にネット社会にデビューする若者たちが急増している。ネットでの情報収集が日常的な彼らは、新聞や本はもとより、テレビにもほとんど関心がない。あらゆる情報はネットから得られると信じているのだ。

 テレビなどの旧来の報道では誰もが同じ情報を目にするため、社会がそれを監視することができた。だが、ネット社会では膨大な情報の中から各人が勝手に情報を選択し、社会的な情報の共有がない。受け手は、たまたま見た情報を信じる傾向が強くなり、それが誤りであっても気がつく術がない。誰がどのような情報を得ているのか、その情報からどのような影響を受けているのか誰にもわからないのだ。

 今後、実社会よりネット社会に先にデビューする世代が急速に増えて行く。人格はその人が育った社会環境に大きく左右されると言われるが、彼らの人格形成に得体の知れないネット社会が大きな影響を与えることは避けられない。それがどれほど深刻な事態を招くか、今はまだ誰にもわからない。

巨人の出現

 安倍政権になっても尖閣問題により悪化した中国との関係改善の糸口がつかめず、むしろ対決姿勢が強まっているように見える。安全保障の問題は確かに重要だが、その点ばかりをクローズアップしていたのでは状況を大きく見誤りかねない。

 最近、元外交官の河東哲夫さんの本の中にこんな下りがあった。「ソ連の崩壊は冷戦という観点から見れば高々45年の歴史に終止符を打ったに過ぎないが、中国の復活は300年間に及ぶ西欧支配、つまりは植民地主義が終焉を迎えたことを意味する」。この20年の中国の復活は、世界のパワーバランスを根本的に変えてしまったのである。

 産業革命による西欧帝国主義の隆盛と清王朝の衰退により世界は西欧中心に動き始め、中国は長い低迷の時期に入った。その後、辛亥革命、日中戦争、共産主義革命、文化大革命と大きな転機は何度もあったが、近代化は進まず低迷から脱する事はできなかった。いつしか世界中の人たちは、中国はイデオロギーの壁の向こうにある巨大な後進国家であり続けると信じて疑わなくなったのである。

 毛沢東の死後、改革開放が始まったが、それでも発展の速度はなかなか上がらなかった。だが、転機は突然やってきた。100年は続くと言われた冷戦があっさり終結したのだ。

 中国の人口はヨーロッパとアメリカを足したものに匹敵する。冷戦の終結とともに、その労働力を求めて世界中から投資の波が中国に押し寄せた。中国の労働力をいかに自分たちの利益として取り込むか、そして中国の市場をいかに早く切り開くか、出遅れれば致命的な打撃を受けることになったのだ。

 結果的に、中国をめぐる先進国のそうした競争が中国の近代化の扉を一気に開くことになったのである。冷戦という堰が切られ、近代化という水が一気に中国に流れ込んだのだ。気がつけばそこには、20年前には誰も想像しなかった巨人が立っていたのである。

 この突然の出来事は、さまざまな歪みを世界中に生じさせた。中国国内では急速な経済発展が貧富の格差や環境問題、さらには昨今話題の金融のゆがみなどを引き起こし、海外においては産業の空洞化、資源獲得競争激化、領土問題などで各国を悩ませている。中国発の巨大津波が世界中を駆け巡っているのだ。

 こうした問題はあまりにも急速な中国社会の変化にともなう副作用で、大地震後の復興のように解決には時間がかかる。だが、そうした個別の問題への対処にばかり注意していては事の本質を見誤る事になる。それよりも新たに出現した巨大パワー、現代中国とどのような関係を構築して行くかというグランド

「不確定性原理」の謎

先日、日本経済新聞の一面に、「物理の基本原則にほころび 『不確定性原理』修正か」いう記事が載った。もともとこの原理は量子力学の創始者の一人、ハイゼンベルクによって1927年に提唱されたものだが、一般の人にはほとんど馴染みがない。にもかかわらずこうした記事が日経一面を賑わしたのは、その衝撃の大きさを物語っている。

「不確定性原理」とは、ミクロの世界では「物の位置と速度を同時にある精度以上に測定することはできない」というものである。これは位置と速度を決めることにより物体の運動を正確に定めることができたニュートン力学に制約を課している。しかし、なぜそのような制約が出てくるのだろうか。ハイゼンベルクの説明は以下のようなものだ。例えば、電子の位置と速度を定めるためには電子に光を当て電子を見る必要がある。しかしミクロの世界では光を当てるという行為自体が電子の速度に影響を与え、結果的に位置を正確に見ようとすればするほど速度が曖昧になってしまうのだ。

ところで量子力学では、電子は「粒子」ではなく空間全体に広がる「波」として表わされる。実はこの「波」で表された電子は、自動的に不確定性原理を満たしている。位置の正確な「波」は速度が曖昧になり、速度が正確な「波」は位置が曖昧になるのだ。

では、この「波」が電子そのものの空間的な分布を表しているのだろうか。そう簡単には行かない。電子は観測すれば決まった電荷を持ったれっきとした「粒子」であり、「波」のように広がっているわけではないのだ。

では、この「波」は何なのだろうか。N・ボーアのグループは、「波」の振幅が電子が観測される確率に対応しているという説を提唱した。空間に分布している「波」は電子自身ではなく、電子が観測される確率の大小を表しているのだ。こうして電子は、「粒子」ではあるが、どこにいるかは確率的にしかわからないということになった。従って、ニュートン力学のような軌道は定まらない。ハイゼンベルクは、このような状態の「粒子」の位置と速度の間に「不確定性原理」が成り立っていることを導いたのである。「不確定性原理」は、量子力学と観測される物理量の関係について述べた原理なのだ。

不思議なことだが、量子力学と観測の関係はこれまでにあまり正確に検証されておらず、ハイゼンベルクの「不確定性原理」が一人歩きしてきた観がある。そこに異議が唱えられても不思議はなかった。今回の報道は、以前から「不確定性原理」の不正確さを指摘していた小沢教授(名古屋大学)の理論が実験的に証明されたというものだった。

「不確定性原理」の背景になっているのは、観測するまではさまざまな可能性を持っている物理量が、観測によって一つの値に定まるという考え方である。これは量子力学を築く上での基礎にもなっている。しかしながら、そのメカニズムはどうなっているのか、それが何を意味するのかは謎のままである。「不確定性原理」は、観測という物理学の基本が何を意味しているのか未だ不確定であることを露呈しているようにも見えるのである。

巨大エネルギーの解放

プレートが蓄えた膨大なエネルギーの解放が3・11の巨大地震を引き起こしたが、日本を襲う巨大なエネルギーは地震だけではないようだ。

このところ世界中であまりいい話は聴かない。アメリカ発の経済危機から回復する間もなくヨーロッパではギリシャやポルトガルなどの財政危機問題に直面している。エジプトを始めアラブ諸国でも次々と革命により政権が交代し時代の転機を迎えている。これまで好調だった中国経済も、物価の高騰、格差の急拡大で先行きに陰りが見え始めている。こうした世界の動きは、一見ばらばらに見えるが、実は資本主義市場の巨大エネルギーの解放によって引き起こされているのだ。

そのきっかけとなったのは、22年前の東西冷戦構造の終結である。冷戦の終わりは新興国台頭の幕開けとなった。中国を例に取れば、改革開放が一気に進み、堰を切ったように外資が流入し、瞬く間に世界の工場に登りつめた。中国の安い人件費を求めて先進国が押し寄せたのである。冷戦によって堰きとめられていた資本主義の巨大エネルギーが一気に解き放たれたのだ。

その余震は未だに収まる気配を見せていない。資本主義のエネルギーは、富を求めて世界中の新興国に流入し続けているのだ。その勢いはあまりに強く、もはや国家の統制を越えている。グローバル化といえば聞こえはいいが、制御不能の暴走なのだ。

企業は1つの国に縛られる必要はない。市場、労働力、資金、いずれを得るにも世界中の最も適した場所を選べばよい。しかも、日産やソニーのようにトップが外国人になり、さらに将来、本社機能も海外に移転することになれば、もはやその企業の出身地がどこであるかは重要ではない。企業は多国籍化し、世界を舞台に最も利益が上がる体勢を模索するのみである。企業の世界地図と国家の世界地図ではすでに大きなズレが生じている。

国家は法によって国を治めようとするが、その運転の原資となる税金は企業が稼ぎ出した利益だ。その企業が海外にどんどんシフトして行けば、税収は減り国力は弱まっていく。この15年ほど日本のGDPが全く延びないのは、企業の海外シフトの顕著な表れだ。とはいえ、税収を増やすために増税すれば、海外流出はさらに加速する。社会保障を国債でまかなうしかない日本は、すでに国家としては機能不全に陥っている。

企業は企業で、グローバル化した経済の中でかつてない厳しい国際競争に晒されている。油断すればあっという間に倒産の憂き目にある。今後、事業の海外移転はますます加速していくだろう。国内でも正社員は姿を消し、派遣社員が急増するに違いない。

今回の震災は、奇しくも政府の弱体化を露呈し、企業の海外シフトを加速させている。だが、これは日本だけの問題ではない。新興国の成長が一段落し、競争力が落ちてくれば、厳しい競争も少しは和らぐだろうか。いずれにせよ、国や企業に頼った価値観だけでは、これからの世界を生き抜いていくことは難しそうだ。

経済成長中毒

 日本経済新聞の7月初旬頃までの「脱原発」に対する批判は相当のものだった。原発事故を受けて安易に脱原発の気運が高まっているが、このまま原発の稼動がままならなければ電力事情が悪化し、日本の国際競争力にさまざまな悪影響が出るというものだ。確かに、気分だけで原発反対を叫ぶのは無責任だが、福島第一原発の事故直後であることを考えると、毎日のように大きな紙面を使って原発の必要性を訴える姿は、特定の企業の事情をヒステリックに代弁しているようで、非常に浅はかな印象を受けざるを得なかった。このところ節電の効果などで電力需給に余裕が出て来て日経の論調も緩やかになったが、原発という難しい問題をこれほど一方的な視点で論じる姿はかなり異様に映る。

 日経の論調はあくまでも経済優先である。だが、その経済優先策がこの度の原発事故を招いたのではないか。3年前のリーマンショックの際、それまでの経済最優先の価値観に世界中で反省が起きた。しかし、結局、何も変わらなかったようだ。いまだに日本も世界も経済成長に代わる新たな方向性を見出せずにいるのである。

 それにしても、経済最優先の構造から抜け出すのは、なぜそれほど困難なのだろうか。それは恐らく資本主義の根本にあるのが人間の欲だからだ。エアコン、自動車、インターネット...。人は一度便利なもの、快適なものに慣れるともはや後戻りはできない。資本主義はそうした人間の弱みを原動力にしている。もちろん、便利さや快適さそれ自体が悪いわけではない。しかし、自動車に乗って歩かなくなれば健康にはマイナスだ。つまり、便利さの代償として健康を失っているのだ。さらに、ハイキングなどで歩くことが億劫になれば、自然と親しむ機会も知らぬ間に失っているかもしれない。便利さが必ずしも生活を豊かにするとは限らないのに、人はそれに抗うことができない。資本主義社会というのは、実は便利さや快適さという麻薬に犯されたある種の中毒社会なのである。

 だが、そこで生き残りをかける企業は、麻薬であれ何であれ売っていくしかない。そこに倫理を期待しても限界がある。従って、もし資本主義社会が本当に人々の求めるものを提供できるようになるためには、消費者が目覚めるしかない。しかし、その前にわれわれは自分達がこれまでに失ってしまったものを、もう一度じっくり見直して見る必要があるのではなかろうか。

先日、NHKの番組で、北極探検家の荻田泰永氏が次のように語っていた。「北極には何もない。しかし、だからこそ感覚が研ぎ澄まされ、日常では気づかないさまざまなものが感じられるようになる。」、と。かつてわれわれは、便利さや快適さよりもずっとすばらしいものをたくさん持っていたのではないだろうか。経済成長が豊かさをもたらすと信じてきたが、実はそのために多くのものを失ってきたのではないか。その結果が、うつ病が蔓延する今の社会になってしまったのではないのか。このあたりで立ち止まり、自分達の価値観を根本的に見つめ直してみる時期に来ているのではないだろうか。

自然エネルギーの難しさ

 福島第1原発の事故で、「もう原発はやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という声が高まっている。しかし、そこにはさまざまな課題が存在する。

自然エネルギーはコストが高いといわれている。確かに現状では電力会社が供給する系統電力より高い。だが、例えば太陽光発電を例に取れば、各家庭レベルで取り組んでいたのでは、電力会社の大規模発電に比べて効率が悪いのは当り前だ。このところの太陽光パネル価格の値下がりを見ると、もし電力会社が率先して取り組めば、コストの問題は解決できるのではないかと思われるのだが、そうした動きは見えない。自然エネルギーの普及を妨げているのは、実は単なるコストの問題ではなく、自然エネルギーが既存の電力供給体制になじまないからなのだ。

 現在、原子力発電所は一基あたり100KW程度の発電能力があり、全国の原発が発電している電力は5000KW程度である。一方、自然エネルギーの一つである太陽光発電の場合、各家庭の発電量は太陽光が最も強く降り注ぐ真昼時でも3KW程度だ。曇りの日はパワーが落ちるし、もちろん夜間は発電できない。つまり、ピーク時においてすら、2000万世帯ほどに太陽光発電装置を設置しなければ原子力には追いつけない。

しかし、電力会社が自然エネルギーに消極的なのは、単に発電量の問題だけではない。電気というのは需要が供給を上回った途端、全部停電してしまう。そのため、電力会社にとって、需要を上回る供給を確保することは至上の課題なのだ。もし、突然、大規模停電が起きれば、その被害は計り知れない。この安定供給の観点から見ると、自然エネルギーは、太陽光であれ風力であれ自然任せで全くあてにならない。電力会社にしてみれば実に「質の悪い電力」で、自分達の安定供給を乱す厄介者でしかないのだ。

 現在、家庭で発電した電力で余った分は電力会社が買い上げてくれるが(売電)、そこには電力会社の安定供給を守るためのさまざまな制約がある。例えば、売電により電力会社が家庭に供給する電圧100V±10Vを越えて変動することは許されず、そうした場合には売電はストップされてしまう。売電する家庭が少ない場合はいいが、町ぐるみ太陽光発電装置を取り付けた場合などには問題になってくる。昼間、太陽光がさんさんと降り注ぎ、せっかく発電量が増えてきたかと思うと電圧が上がり、電力会社から売電ラインを強制的に遮断されてしまうのである。せっかく自腹を切って太陽光パネルを設置しても、思うように買い上げてもらえず、結局、予想以上にコスト高になってしまうのだ。

原子力を減らし自然エネルギーの比率を高めていくためには、電力会社自身が積極的に自然エネルギーの推進に乗り出し、電力供給体制を再構築することが不可欠だ。感情的に原発反対を唱えるのは簡単だが、現実には莫大なお金も時間もかかる話であり、また、電力コストの上昇が日本経済に致命的な打撃を与えかねない。今、本当に求められているのは、将来を見据えた確固たる長期ビジョンなのである。

コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

ソニーが本当に失ったもの

かつてソニーというブランドには独特の響きがあった。価格は高かったが、けっして期待を裏切られることはなかった。ソニー製品を選ぶということは、違いがわかることの証であり、特別のステイタスをもたらしてくれたのである。

 巷では、そうしたソニーに対して、日本を代表するグローバル企業であり、そこに働く人たちは垢抜けて颯爽としているかのようなイメージがある。だが、入社してみると、大きなギャップがあった。実際には泥臭く、人間臭い会社だったのである。皆、不思議なほど親切で、家族のような暖かさがあった。ある意味で典型的な日本的な企業だったのだ。だが、今にして思えば、そうした環境こそが、日本人の持ち味が存分に生かし、世界を席巻するパワーを生み出していたのではないだろうか。

ソニーを支える主力製品の各部門には、必ずと言っていいほど個性豊かな大物がいた。彼らも決して垢抜けたエリートタイプなどではなかったが、だからと言って町工場の職人さんとも違っていた。独特の創造力に溢れ、自らの技術が世界のソニーを支えているという確固たる自負を持っていた。だが、その一方で、ソニーブランド自体が彼らの自信を裏付けていたのも事実だった。会社と社員は、互いに媚びることなく、互いの力を高め合っていたのだ。

それにしても入社当時は、社内のいい加減さに驚かされた。意味の良くわからない企画が予算会議ですんなりと通ってしまう。あいつなら何かやるだろうと言うのだ。必ず儲かると企画書で説得できなければ、決して予算の降りない昨今では考えられない話だ。しかし、このアバウトさこそ、言いたいことを言い、やりたいことにチャレンジできる土壌をつくっていた。そして誰も思いつかないアイデアを生み出す源となっていたのである。

 しかし、こうしたソニーの文化は、ある時期から急速に損なわれていった。いつしか、何かにつけて「成果」とか「利益」いう言葉が振り回されるようになり、誰もが常識的なことしか言わなくなった。前CEOの出井伸之さんが社長に就任した1995年頃には、すでにこの症状はかなり進んでいた。

出井さんはしばしばソニー凋落の戦犯のように言われることがあるが、僕はそうは思っていない。時代は当時、アナログからデジタルに、そしてソニーが従来得意としていたビデオやオーディオなどのパッケージメディアからインターネットの時代へと急速に移りつつあった。ソニーはかつての強みを発揮できない状況に追い詰められていたのである。そうした危機を、VAIOやプレイステーションの立ち上げで何とか乗り切ろうとした出井さんの作戦は理にかなっていたと思う。

だが、残念なことに、ソニー文化の崩壊は、まるでそれが会社の方針であるかのように容赦なく進んで行った。個々のメンバーの能力が発揮されなければ、いくら経営に腕を振るったところで何も出てこないのは自明のことだ。ソニーが本当に失ったものは、社員が存分に創造性を発揮できる環境そのものなのである。はたして経営陣はそのことに気がついているのだろうか。