コミュニケーションブレイクダウン

かつて携帯電話が普及し始めた頃、女子高生がカラオケ代を削って携帯代に回していた時期があった。彼女達にとっては、携帯電話により、普段、面と向かって伝えられないことを伝えられることが、カラオケより大切だったのである。

ところが、しばらくすると携帯メールが登場し、瞬く間に普及した。携帯メールはほとんどお金がかからないため、経済性から携帯電話をあまり利用しなかった主婦も飛びついた。パソコンを使わない彼女らにとって、携帯メールはネット社会へのデビューでもあった。そして、一日中いつでもどこでも連絡が取れるメールは、彼らの人間関係を大きく変えていったのである。

しばらくすると、たとえ携帯電話が無料でも、あえて電話よりはるかに面倒な携帯メールを使うまでになった。電話をかけることに抵抗感を覚えるようになったのである。電話では相手がいつも出られる状態にあるとは限らない。相手の状況を気にする必要があるのだ。それに比べメールではそうした気遣いが不要だ。多くの人が、コミュニケーションにおけるストレスを避けるために携帯メールを多用するようになっていく。

その後、携帯メールには、絵文字やデコメールなどの機能が加えられ、それまで誰も経験したことのない微妙なニュアンスを伝えられるコミュニケーション手段となっていく。一時、KYつまり「空気読めない」という言葉が流行ったが、携帯メールによってコミュニケーションにおけるストレスに敏感になったことと無関係ではないだろう。ネット社会は単なる利便性だけでなく、コミュニケーション自体を大きく変え始めたのである。

本来、日本人はコミュニケーションによるストレスに対して昔から敏感で婉曲な言い回しを好んできた。そうした日本人の間で携帯メールが異常に発達したのもうなづける。高度に発達した携帯メールは日本の文化とも言えるだろう。

しかし、こうしたストレスフリーのコミュニケーションに慣れると、ストレスを伴う人間関係を避けるようになる。引き篭もりになった人が、ネットによってなんとか社会と繋がっていることで大いに救われていると聞くが、裏を返せば、ネットが人間関係におけるストレスからの逃げ場になってしまっているともいえるだろう。

コミュニケーションというのは、単に相手と情報を交換することではない。うまく伝えるためには、伝え方にさまざまな工夫が必要だ。相手に何かを伝えるためには、まずは自分自身が考えなければならない。それが人間関係を豊かなものにしてきたのだ。

携帯メールもコミュニケーションにおけるそうした工夫の一つだとも言えるかもしれない。しかし、ネットだけで全てを伝えられるはずがない。ネットに過剰に依存し、他のコミュニケーションから逃げてしまうのは非常に危険なのだ。

コミュニケーション手段の発達が逆にコミュニケーションを阻害している。現代社会では、そうした視点も必要なのではないだろうか。

ソニーが本当に失ったもの

かつてソニーというブランドには独特の響きがあった。価格は高かったが、けっして期待を裏切られることはなかった。ソニー製品を選ぶということは、違いがわかることの証であり、特別のステイタスをもたらしてくれたのである。

 巷では、そうしたソニーに対して、日本を代表するグローバル企業であり、そこに働く人たちは垢抜けて颯爽としているかのようなイメージがある。だが、入社してみると、大きなギャップがあった。実際には泥臭く、人間臭い会社だったのである。皆、不思議なほど親切で、家族のような暖かさがあった。ある意味で典型的な日本的な企業だったのだ。だが、今にして思えば、そうした環境こそが、日本人の持ち味が存分に生かし、世界を席巻するパワーを生み出していたのではないだろうか。

ソニーを支える主力製品の各部門には、必ずと言っていいほど個性豊かな大物がいた。彼らも決して垢抜けたエリートタイプなどではなかったが、だからと言って町工場の職人さんとも違っていた。独特の創造力に溢れ、自らの技術が世界のソニーを支えているという確固たる自負を持っていた。だが、その一方で、ソニーブランド自体が彼らの自信を裏付けていたのも事実だった。会社と社員は、互いに媚びることなく、互いの力を高め合っていたのだ。

それにしても入社当時は、社内のいい加減さに驚かされた。意味の良くわからない企画が予算会議ですんなりと通ってしまう。あいつなら何かやるだろうと言うのだ。必ず儲かると企画書で説得できなければ、決して予算の降りない昨今では考えられない話だ。しかし、このアバウトさこそ、言いたいことを言い、やりたいことにチャレンジできる土壌をつくっていた。そして誰も思いつかないアイデアを生み出す源となっていたのである。

 しかし、こうしたソニーの文化は、ある時期から急速に損なわれていった。いつしか、何かにつけて「成果」とか「利益」いう言葉が振り回されるようになり、誰もが常識的なことしか言わなくなった。前CEOの出井伸之さんが社長に就任した1995年頃には、すでにこの症状はかなり進んでいた。

出井さんはしばしばソニー凋落の戦犯のように言われることがあるが、僕はそうは思っていない。時代は当時、アナログからデジタルに、そしてソニーが従来得意としていたビデオやオーディオなどのパッケージメディアからインターネットの時代へと急速に移りつつあった。ソニーはかつての強みを発揮できない状況に追い詰められていたのである。そうした危機を、VAIOやプレイステーションの立ち上げで何とか乗り切ろうとした出井さんの作戦は理にかなっていたと思う。

だが、残念なことに、ソニー文化の崩壊は、まるでそれが会社の方針であるかのように容赦なく進んで行った。個々のメンバーの能力が発揮されなければ、いくら経営に腕を振るったところで何も出てこないのは自明のことだ。ソニーが本当に失ったものは、社員が存分に創造性を発揮できる環境そのものなのである。はたして経営陣はそのことに気がついているのだろうか。

日本の持ち味

 サッカーワールドカップにおける日本チームの活躍が久しぶりに日本中を沸かせた。世界との差がまだまだ大きい中であれほどの活躍ができたのは、日本の持ち味を最大限に発揮できたからに他ならない。弱みを最小限に抑え、強みを最大限に生かせば、世界を驚かすパフォーマンスも夢ではないことを証明したのだ。実戦でみごとに結果を出した岡田ジャパンは、サッカーに限らず日本が世界とどう戦っていくべきか、その術を示してくれたような気がする。

最近の日本は、かつて世界を席巻した工業力に陰りが見え始め、焦りと自信喪失に浮き足立っているように見える。もともと日本の工業製品には日本人の気質が強く反映されてきた。その競争力の源は、絶え間なき改善とユーザーの立場に立った徹底的な気配りであり、それが自動車をはじめ日本の工業製品を世界一のレベルにまで高めたのである。工業製品はまさに日本の持ち味の結晶だったのだ。

しかし、バブル崩壊後、多くの日本企業はコストダウンのために生産拠点を海外に移し、部品も世界中から調達するようになった。その結果、愚直な品質改善に取って代わり、いかに効率的にコストダウンするかが課題となった。グローバル化の名の下に行われたそうした方向転換は、日本人本来の持ち味を発揮する場を次第に奪って行った。コストダウンばかりを追及するうちに、魅力あるサービスや製品を生み出す力は衰え、製造業は底なしのデフレスパイラルに落ち込んでしまったのである。

日本の環境技術は世界をリードしているとか、マンガは日本発のグローバルスタンダードだという声を、最近、よく耳にする。何とか自信を取り戻そうと、自分を鼓舞しているのだろう。確かに、早くから環境に対する厳しい規制を自らに課してきたことにより日本の環境技術は進歩してきた。マンガには日本人独特の感性が凝縮しており、世界中に大きな影響を与えている。工業だけでなく、さまざまなところに日本の持ち味は発揮されているのである。しかし、工業はだめでも環境やマンガがある、と言うわけには行かない。環境分野には永年のアドバンテージがあるものの、そんなものはすぐに追いつかれてしまう。工業がダメなら、結局、環境もダメだろう。マンガはそもそも産業として工業の代わりになるようなものではない。環境技術もマンガも、日本人の持ち味を改めて見直すには良い例だかもしれないが、過去の遺産に頼っていても未来は開けない。

サッカーに限らず、持ち味を発揮することは簡単ではない。結局のところ、常に自分の持ち味を意識し、それをどのように生かすか悩み続ける以外に方法はない。そして、一人一人が自分の持ち味を出し切った時、勝利とともに何ものにも換えがたい充実感を手にすることができるのではないだろうか。

グローバル化とは世界の後追いをすることではない。日本が自分の持ち味を生かせるようになったとき、初めてグローバル化したと言えるのである。

消費者の質と市場原理

先日、マクドナルドの新製品を手にした女子高生たちが、「コレ、チョーウマイ」と盛り上がっている様子を見て、このところずっしりと手ごたえのあるものに出会っていないと、ふと思った。どうも世の中そういう雰囲気ではなさそうだ。

メーカーより流通が強いといわれて久しい。家電メーカーの営業は家電量販店に出向いて頭を下げ、どういう液晶TVが売りやすいかお伺いを立てている。食品メーカーも、味やパッケージデザイン、さらには賞味期限までもスーパーやコンビニの意向に神経を尖らせる。売りやすさとはお客様のことを考えてのことだから、一見、消費者のニーズに応えているように見えるが、実はそうでもない。

いかに買う気にさせるかということは、昔も今も商売の基本であることに変わりはない。かつては良いものを作って消費者の心をつかむというのは当たりだった。そこには売る側と買う側の真剣勝負があった。しかし、最近では売る技術の高度化にともない、商品の質は買う気にさせるためにあまり大きなウエイトを占めなくなっているように思える。消費者が手を伸ばすかどうかは、むしろ販売促進のためのさまざまな工夫によるところが大きいのだ。

コンビニはその典型だろう。24時間営業、行きやすい立地、入りやすい雰囲気(これには立ち読み客が一役買っているが)。スイカやパスモはお金の出し入れの手間さえ省く。もちろん商品自体にも客の興味を誘う仕掛けが満載である。手ごたえのある商品などとは無縁のコンビニが現代の小売業界の雄なのだ。

売る技術の高度化は何も物品の売買に限らない。かつては玄人に限られた世界だった株取引も、今ではパソコンやケータイからのネット取引が当たり前になり、学生や主婦も気軽に参加できるようになった。ゲーム感覚だから損をしても実感が薄い。手軽さだけでなく損を重く感じさせないことも金を使わせるためのミソなのだ。

市場原理とは本来、安くて良いものが勝ち残り、その結果、生活が豊かになる仕組みだったはずだ。つまり、売る側と買う側のバランスの上に市場原理は成り立つのである。だが、売る技術の進歩により、消費者はニーズもないのに購買意欲を喚起されるようになった。逆に商品の質は落ち、消費者の満足度は落ちる。メーカーは商品の寿命が短くなったと嘆くが、自らそうした結果を招いていることに気がつかない。金融資本主義ばかりが槍玉に挙げられているが、今回の世界的不況は、売る技術の過剰な発達によって市場経済のバランスが崩れ機能不全に陥ったことが根幹にあるのではなかろうか。

重要なのは、これは売る側だけの責任ではないということである。自らの思考を停止し、売る側に依存し切った消費者に実は問題があるのだ。最近の消費者には、本物をじっくり味わう余裕も忍耐も感じられない。市場を健全な状態に戻すために問われているのは、何よりもまずそうした消費者の質なのではないだろうか。

勝者なき戦い

 アメリカの自動車メーカーGMが倒産した。原因についてはさまざまな分析がなされているが、日本の自動車メーカーとの競争に敗れたことが主因であることは間違いない。しかしながら、そのカイゼンにつぐカイゼンで効率化を図ってきたトヨタも、昨年は数千億円の赤字に転落し、なりふり構わぬ工場の閉鎖と大量の派遣切りを断行した。今後、世界戦略を見直し、いっそうの効率化を図るそうだが、下請け業者の悲鳴が聞こえてきそうだ。

 今回の世界的な不況の引き金となったのが、昨年のリーマンブラザースの倒産である。あらゆる投機技術を駆使して世界中からお金を吸い上げてきたアメリカの投資銀行がこれほどあっけなく破綻するとは、しばらく前には誰が予想しただろうか。他の投資銀行も軒並み破綻し、アメリカの金融資本主義はあえなく終息した。彼らがサブプライムローンという禁断の果実に手を出したのも、投資銀行間のあまりにも熾烈な競争だった。

 今日のように、世界中のあらゆる産業で競争が加速されたのは科学技術の進歩によるところが大きい。かつてCDが登場したとき、レコードはあっという間に姿を消した。最近ではデジカメの登場がフィルムカメラを市場から葬った。技術の進歩による競争力の差は恐ろしいものがある。競争に勝つためには、企業は少しでも速く新たな技術を取り入れなければならない。コンピューター、ロボット、IT...。それらは、製造業においては生産効率を飛躍的に向上させるが、もし遅れを取ればたちまち致命傷となる。金融においては、技術の進歩はさらに大きな差をもたらす。現代の巨大化したデリバティブ取引は、そろばんと札束では到底成り立たない。高度な金融理論を駆使すべく高速コンピューターと世界中を瞬時に移動できる電子マネーが不可欠なのである。

 競争の激化は否応なく格差を拡大する。かつて食料品は商店街や近くの八百屋さんで買ったものだが、スーパーが出現して多くの店が姿を消してしまった。そうした大規模流通業を支えたのもテクノロジーの進歩である。スーパーはスーパーで同業者間の激しい競争がある。それに勝ち抜くために、彼らは納入業者にギリギリのコストダウンを要求してきた。昨年、しばしば話題となった食品偽装の問題は、もちろん悪質な業者もいるだろうが、納入先からの値下げ圧力と自らの存続の間で追い詰められた結果とも言えなくはない。法律の範囲内でギリギリまで値下げすれば褒められるが、一線をわずかでも超えればたちまち犯罪者である。値下げを拒めば取引中止だ。激しい競争は、強者が弱者をいじめる社会構造を作り出しているのである。

最近の世界を揺るがす企業の破綻劇を見るにつけ、自由競争が果たして人類に豊かさをもたらすものなのか疑問を禁じえない。社会の格差は拡大し、生き残ったものも消耗戦に疲れ果てている。現代の競争は、勝者なき戦いなのではないだろうか。

消費型社会の転換点

トヨタ自動車が本年度の決算で4000億円を超える赤字に転落すると言う。昨年度、2兆円以上の営業利益を上げた日本最強の企業がわずか1年でこのような事態に転落するとは誰が予想しただろうか。自動車メーカーは一斉に大幅な減産に入った。今後、売り上げのさらなる減少を見込んでいるためだ。

自動車の販売が急速に落ち込み始めたきっかけは、昨年のガソリン価格の高騰である。その後、ガソリン価格は下がったものの、販売の減少には歯止めがかからなかった。アメリカの金融危機が表面化し、消費者心理を冷やしたことも一因だが、ガソリンの高騰で消費者の自動車に対する考え方が、微妙に、しかし根本的に変わってしまったのではなかろうか。

買い物にも子供の送り迎えにも自動車はなくてはならない。金はかかるが自動車は必需品で、家計はその維持費を織り込み済みだった。ところがガソリン価格が急騰し始めると、スタンドに行くたびに想定外の出費を強いられる羽目になった。それまで疑問もなく乗っていた自動車が、急に重荷になり始めたのである。折りしも世界中で環境問題が取りざたされ、多量のCO2を排出する車はその元凶の一つとされた。健康診断で肺がんの疑いありと言われた途端、それまで何の気なしに吸っていたタバコが急に怖くなるというが、自動車も、ある日突然、当たり前のものではなくなってしまったのだ。一旦、そうした意識に目覚めると、消費者はすぐに車をやめないまでも、台数を減らしたり、買い替えを遅らせようとする。メーカーにとってはまさかの販売急減も、冷静に見れば当然の結果だったのだ。

こうした消費者意識の転換は、自動車に対してだけではない。家電にせよ何にせよ、そもそも巷に溢れる商品は、どれほどわれわれの生活を豊かにしてくれているだろうか。かつて自分が始めてステレオを買ったときを思い出してみると、当時はとにかく欲しくて欲しくてたまらず、毎日カタログにかじりついていたものだ。それが今ではどうだろう。店まで見に行くのも億劫で、ネットで買い物を済ませることも珍しくない。すでに巷に物は溢れているのだ。メーカーは、その程度の興味しかない消費者相手に、必死に購買意欲を喚起しようと涙ぐましい努力を続けているのである。

先進国ではすでに物やサービスが供給過剰になっている。サブプライムローンは、購買力のない低所得者層に無理やり住宅を売ろうとして破綻したが、最近の世界経済は、極論すれば、要らないものを無理やり売りつけることで成り立っているのである。伸びきった腰は、砕けるときはもろい。

現代の大量消費型社会が石油に支えられていることを忘れてはならない。物質的な豊かさを追い求める時代は、すでに終わっているのである。今回の不況は、資本主義社会に本質的な転換を迫っているのだ。にもかかわらず給付金をばら撒く程度の対策しか持ち合わせていないとなると、先行きは相当暗い。

学歴社会

最近、ゆとり教育の反動で、高校も急速に受験教育に舵を切り始めている。だからと言って、都立高校に通う長女の話では、大学に行ってからのことや、就職を考慮してどの学部を選択すればよいかというような話は、やはりほとんどないと言う。教師たちの目は受験までで止まっていて、その先を見る余裕などないのだ。

かつて、学歴偏重が学生に強いる過酷な受験勉強を緩和しようと、高校入試に学校群制度が導入されたり、ゆとり教育が試みられてきたりしたが、結局、変わったのは高校の偏差値地図くらいのもので、相変わらず東大の威光が衰える様子はない。高校入試や小中学校教育をいくらいじっても、最後に控える大学入試がそのままでは何も変わるはずがない。そもそも国には学歴社会を本気で変えようとする気などないのである。

大学入試は、学歴社会を支えるために入念に準備された制度である。全国の生徒を一つの基準で判定する制度は他に類を見ない。全員が参加することは、一見公平に見えるが、そこで下される判定は、受験する本人に対しても、世間の眼に対しても、否が応でも序列の意識を刻み込む。小学校から高校まで、毎日のように勉強しろ!勉強しろ!と言われ続けたのも、ひとえに最後に入試が控えているからなのだ。

勉強ができる人を「頭が良い」と言う。そして本人も自分は頭が良いとか悪いとか思い込んでしまう。頭の良し悪しは学校の勉強だけで決まるわけではないのに、知らぬ間に勉強ができない奴は劣等生だとレッテルを貼られてしまうのである。学校教育の現場では入試と呼応して、子供の心に着々と学歴意識を植え付けているのである。

美術や体育などの教科は、英語や数学のような受験科目に比べて一段下に見られる傾向がある。これは、それらの教科が入試に組み込まれていないからである。実生活では、芸術鑑賞や健康の重要性は、英語や数学より劣るとは思えないが、記憶力と理解力を主に評価する大学入試には美術や体育はなじまない。一旦、受験科目からはずされてしまうと、そうした科目は無言のうちに差別され、軽視されてしまうのだ。

一旦、学歴社会ができると、親は子供を受験勉強に駆り立て、その子供が受験によって序列化されることによりますます学歴信仰が強まるというスパイラルが出来上がる。こうして学歴社会はますますゆるぎないものとなっていくのである。

学歴社会が生まれる背景には、権威に弱い日本人の国民性が透けて見える。自分で価値判断ができないから、お上が決めた価値観に従うのである。こうして見ると現代の学歴社会は、意外にも戦前の軍国主義教育の時代と、さほど変わっていないのかもしれない。

ゆとり教育が挫折し、再び復活の兆しが見える受験偏重教育。結局のところ、学歴社会を抜け出せないのは、単に教育制度の問題ではなく、東大ブランド以上の価値観を見出せない日本の社会の貧しさを象徴しているのではないだろうか。

ネットオークションの楽しみ

 ネットオークションはもともとフリーマーケットのインターネット版である。しかし、何しろネットの利用者は全国に広がっているので、不要な物が必要な人と出会う確率は圧倒的に高い。商品の種類も豊富なので、最近は日常的な買い物に利用する人も少なくない。

 オークションでは、当然、人気のある商品は高くなる。デジカメなどの人気家電やブランド品などは、量販店やブランド品専門店などに比べ、あまり割安とはいえない。逆に一般に人気のないものの中に面白いものがある。フィルム式カメラなどもその一つだ。デジカメの普及ですっかり人気がなくなり、物によってはタダ同然である。確かにデジカメは手軽に撮れるが、データをパソコンに保存してそれっきりになりがちである。フィルム写真では、現像するのが当たり前で、出来上がった写真を楽しむ機会はずっと多い。画質的にもまだデジカメより優れるフィルム式カメラは、狙い目商品の一つなのである。

ネットオークションでは、入札に際して実際に商品を手にとって確かめることはできない。出品者がネット上にアップした数枚の写真と商品説明だけが頼りである。従って出品者の信用が重要なポイントとなる。そのため、落札者は落札後、出品者を評価することになっている。この評価内容は公開され、次の入札者が参考にするので、出品者はできるだけ誠実に対応しなければならなくなる。評価システムはオークションにおける信用の要なのだ。

 オークションに出品しているのは個人だけではない。最近ではオークションの巨大な市場を狙ったオークションストアと呼ばれる専業業者も増えてきた。こうしたストアのなかには、驚くべき安さで大量のものを出品しているものがいる。ネットオークションでは、店舗が不要で、営業経費もゼロである。その分安くできるのは理解できるが、材料費さえ出そうもない商品がいくらでも出回っている。いったいどうなっているのだろうか。

それらの商品の多くは、倒産した企業や個人の動産競売品である。ただし、それは競売で落札されたものではない。競売品を落札すると、いらないガラクタも一緒に引き取らなければならず、その処分にコストがかかる。お金を払って落札していたのでは合わない。そこで彼らは、競売で落札されなかったものを、逆に処分費をもらって引き取ってくるのである。つまりタダどころか、お金をもらって仕入れているのだ。同時に彼らは、鉄くずなどを売りさばくルートも持っていて、オークションに出せない物も効率よくお金に換えているのである。

マーケットリサーチと宣伝広告が支配する現代の消費市場は、売る側の論理に支配され、掘り出し物に出会う機会など皆無である。信頼性に不安があるにもかかわらずネットオークションが賑わうのは、思わぬ商品に出くわす期待とオークション独特の駆け引きに、買い物本来の醍醐味を感じるからではないだろうか。

化石燃料の功罪

18世紀、蒸気機関の発明は石炭の利用の道を開いた。さらに19世紀に出現した内燃機関は石油の時代を切り開いた。こうした化石燃料の利用は、それまでの人類の歴史をすっかり変えてしまった。農耕社会から工業化社会への移行が急速に進み、そうした工業化がさらに化石燃料の使用量を増加させるというサイクルが回り始めたのだ。そしてそれ以降、人類は、化石燃料の使用量を増加させ続けてきたのである。

工業化の結果、人類は物質的に急速に豊かになった。飢えや寒さ、病気と言った、それまで人類を苦しめてきた様々な困苦を次々と克服し、人口は増加し寿命も延びた。過酷な労働からも解放され、自由な時間を享受することができるようになった。さらに、科学技術の飛躍的な進歩は、コンピューターやインターネットを産み出し、かつては誰も想像すらできなかったような便利で快適な生活が可能となったのである。

しかし一方で、工業化の急速な進展は、経済的な競争の激化を招いた。19世紀の帝国主義は、やがて20世紀前半の世界大戦へとつながっていくが、これを支えたのは、化石燃料による軍事力の飛躍的な拡大である。大戦が終わっても、経済戦争は終わることはない。かつての帝国主義が、天然資源を争うものであったのに代わり、貿易や資本投下という形で、工業生産のための安い労働力をいかに確保するかに焦点が移る。さらに20世紀後半になると、金融が経済戦争の最前線に躍り出る。われわれは化石燃料により、物質的に豊かな生活を手に入れた反面、熾烈な競争社会に身を置かざるを得なくなったのである。

しかしながら、現在、次の2つの観点から、人類は大きな転換点を迎えているのではなかろうか。まず、地球温暖化に代表される環境破壊の問題である。化石燃料が環境に及ぼす影響を無視して経済性を優先させてきた結果、いよいよそのツケが回ってきたのである。もうひとつは、経済戦争の激化により引き起こされた、資本主義の機能不全の問題だ。サブプライムローン問題に象徴されるように、最先端の金融工学を駆使し、あまりにも効率を追求した結果、市場原理がうまく働かなくなってきているのである。

これら2つの問題は、いずれもこの200年あまりに急速に拡大した化石燃料依存型社会の限界を示している。くしくもそうした中で、石油価格が急激に上昇を始めた。化石燃料に頼りすぎている現代社会の危うさを、市場が敏感に感じ始めたのである。

化石燃料を使い始める以前も、人類は永年にわたって幸福を追求してきたはずである。簡単に豊かさが得られる現代と異なり、当時の人たちはもっと深く幸福について考え、多くのことを知っていたに違いない。現代では、ダ・ヴィンチやモーツァルトのような天才が現れなくなったのも、物質的な豊かさに振り回され、本来持っていたパワーを現代人が失ってしまったからではないのか。

今、世界は技術の進歩で、快適さを維持したまま環境に良い暮らしを目指そうとしている。一方で、競争社会におけるリスク管理に躍起になっている。しかし、それらはいずれも対症療法ではないのか。化石燃料がなかった時代に人々がどう考えどう生きていたかを、原点に帰って見つめ直してみることこそ、今、本当に求められているのではないだろうか。

車社会の黄昏

 120km車に乗ると、年間2トンものCO2が排出される。家庭が車以外に出すCO2とほぼ同量が、わずか130分車に乗っただけで排出されるのである。これでは、汗をかいてエアコンの設定温度を上げ、照明をこまめに消して省エネに努めても、全てパーである。同じ一人を運ぶのでも、電車の場合、排出されるCO2の量は車の約20分の1で済む。なぜ車はこれほど多くのCO2を発生するのだろうか。

もともとエンジンよりモーターのほうがエネルギー効率が高い。しかも、線路を走る電車に比べ、道路をタイヤで走るため摩擦が大きい。にもかかわらず、体重60kgの人を運ぶのに常に1トン以上の鉄の塊を一緒に運んでいるのである。エネルギーロスが大きいのは当たり前である。確かにどこでも自由に行ける便利さはあるが、その代償として多量にCO2を排出しているわけである。今後、ハイブリッド車や電気自動車が普及しても、これほど重いものを走らせている限り省エネには限界がある。しかも、重量が大きければ、生産時に排出されるCO2の量も大きくなる。車1台を生産するのに約4トンものCO2が排出されているのである。さらに道路などの車のためのインフラ整備においても、莫大なCO2が排出されており、車社会は巨大なCO2の発生源になっている。

1859年、アメリカのペンシルベニア州で始めて石油が掘削された。当時、石油の主な用途はランプであった。しかし、1879年、エジソンの電球が発明されると灯油の需要は落ち込み、石油産業は破産しかける。それを救ったのが車の発明である。車の石油使用量はランプの比ではなく、世界の石油需要は飛躍的に増大する。まさに車は石油大量消費時代の扉をあけたのである。

しかし、いまやガソリン価格は高騰し、温暖化防止でCO2の発生を抑えなければならない。石油を大量消費する20世紀型の車社会は大きな転換期を迎えている。ガソリンの急激な値上がりにより、6月のアメリカでの新車の販売台数は前年比で18%も落ち込んだ。すでに先進国では車離れが始まっているのである。また、世界のあちこちの都市で路面電車が復活し、パリのようにレンタル自転車網を整備して市内の自動車通行量を30%も減らしたところも出てきている。近い将来、人間の移動手段は劇的に様変わりする可能性がある。

単に移動手段を変えるだけでなく、移動そのものの必要性も見直されている。ある国際企業は、会社が排出するCO2の量を減らすためにTV会議を導入し、海外出張を大幅に減らした。IT化が進んだ今日の情報化社会では、果たして毎日会社に出社する必要があるかどうかも疑問である。すでに大企業では、本格的に在宅勤務を検討し始めている。

今後、移動にともない排出されるCO2は徹底的に削減を求められていくだろう。そうした中で、将来の車の姿は果たしてどのようなものになっていくのだろうか。少なくとも多量のCO2を撒き散らしながら風を切って走る鉄の塊がステータスであった時代は、早晩、終わりを告げるのではなかろうか。